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頑固さと雑さは視野を狭くする。

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結月でございます。

例えばカレーにするならご飯は硬めに炊いたほうが合うし、納豆ご飯だったら好みもあれどカレーに合うほどの硬さだと硬すぎて、かといって柔らかすぎるのもよくない。チャーハンにするならやっぱり硬めがいいだろうし、おにぎりにするなら硬すぎるとパラパラと落ちて握れない。焼き鮭に合わせるなら柔らかめがいいなと思うのは柔らかめに炊いたほうが米の甘味が出るからだと思ったりする。

と、お米の炊き方もそこに合わせるものによって程度を変えたほうがいいわけで、こういう事例はご飯だけでないように思う。

しかしながら、結構保守的というか、頭が固いというか、ひとつのことしかできないというか、そんな人が世の中に多くて、

「融通が利かんね」

なんて嫌味を言いたくなるのもしばしば。

うちの母親なんて多面的でない人間であるから、ご飯の硬さはいつも同じに仕上げようとする。だからカップでしっかりと量って炊くのである。それは父親がご飯の硬さにうるさい面倒なヤツであるからかもしれないが、長年それが定着して水はカップでしっかりと量らないと駄目だと信じてる。

わたしは料理に合わせて硬さを変えるので、水はいつも目分量で、時折狙ったところにいかない時もあれど、大まかに硬いか柔らかいかは分類できるから良しとしている。

ごく稀に一緒になるうちの家人は「雑」の塊であり、体のどこを切っても雑であり、どこからどこまでも雑な人間である。だからご飯を炊くのもご飯の硬さを「狙う」という概念すらなく、炊き上がりは毎度異なるので、料理を作るのはわたしだから余計な気を利かせて雑なご飯を炊かれると困るので「ご飯は炊かなくていい、何もするな」と言っている。なぜなら硬さ柔らかさだけでなく、わたしと5歳児しかいないのに中国の大家族感覚でアホみたいにたくさん炊くので食べきれず、しかも米の研ぎ方もいまいちで炊き上がりも雑であるからおいしくな上に炊飯ジャーから溢れるほどという惨劇になるから。

ご飯の硬さはひとつしか許さないと信じて、毎度カップで決まった分量の水しか入れないタイプも困るが、雑すぎて不味いくせに量が多いのも困る。

子供の頃から母親が作るカレーはどうしてイマイチだったのかという答えがご飯が柔らかいことに原因があるとわかったのはつい最近。バーモントカレーやジャワカレーは説明書通りに作っているから不味いわけがなく、要はご飯がカレーに合っていなかったわけである。

とはいえ、こういうことを母親に言ったところで、頭が固いというか、変化を嫌うというか、変えてみることを躊躇する人間は柔らかいご飯でカレーを作り続けるに違いない。

さらに雑な人間にちょっと考えてくれと言っても考えやしない。

要するにどちらも柔軟な思考ではないということだ。

わたしは人間の視野を狭めるものは頑固さと雑さだということに気づいた。

前者は「見ようとしない」、後者は「見ていない」。

つまり、どちらも世界が「見えていない」。

見えていないとはどういう状態か、それは客観的でない状態だと言える。

例えば、戦争が起こる原因は多面的に複雑で、そう単純なプロセスでは起こりやしない。とはいえ、二者の戦いになると、どちらにつくかという好みの問題、もしくはどちらの陣営に所属して生きているか、どちらのほうにライフスタイルが近いかなどでどちらかにつく。

そうなってしまうと物事の全体がたちまち見えてこなくなって、片方だけになる。それは世界を見る視野が半分になっていることと言える。実際はその半分も見えていないのかもしれない。

どちらかの所属からの情報だけでそのプロセスを考えようとするのはつまり「雑」であり、自分の所属だけにどっぷりなのは「頑固さ」である。

そこに情念が絡んでくると、これは大変よろしくない危険性が出てきて客観的な判断から遠ざかってしまう。

物事にはドメスティックな場で済まされるものとそうでないものがある。

わたしの母親がカレーを作ってもご飯はいつも通り柔らかめなせいで、あまりおいしくないカレーが出来上がり、それを食べなければならないのは一家庭のドメスティックな話で、わたしがそれを我慢すれば済む話である。

しかし、多くはそんなドメスティックな場ではなく、様々な人が混ざり合う場がほとんどで、それがすなわち「社会」という。

そんな中で「頑固さ」と「雑」はあまり歓迎されなくて、なぜなら柔軟性に欠ける両者は諍いを起こしやすいから。

多くのお客さんを相手にするカレー屋をオープンするとして、そこはカレー屋なのにうちのご飯の炊き方にこだわってカレーに合わない柔らかさで提供すると客は二度と来なくなる。

同じく、毎度ご飯の炊き加減がバラバラで、行くたびにご飯の硬さが違う店も困る。

カレー屋をするなら、カレーとしておいしい炊き加減を客観的に考えなければならない。

そういう客観性があると社会はクレバーになるし、そこまで乱れることはない。

しかし思えば、メンヘラだとか、ちょっと精神が病みがちな人というのは、自分という人間に対して客観的に見ることができない体質なのだろう。主観に溺れて苦しくなる。

自分のカレーがどうしておいしくないのか客観的に検証しようとせず、ただひたすらに自分のカレーはおいしくないと愚痴をこぼし続けてメンタルが病む。

主観というのは客観の後に登場させるのがいい。

客観ばかりだと自分を失ってしまう。だから人間には主観がなければならないが、主観が先走るのではなく、客観で間違いを排除し、最終的に主観で決定して行動する。

主観とは自分自身であるから、そこから分離して考えるのは簡単でないかもしれないが、まずは自分から離れて世界を見ようとしないと知らずのうちに人間はひどいことをしてしまっているものなのである。

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