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公演とは雇用を生み出すことである。

結月でございます。

Japan General Orchestra(略してジェネオケ)の創設者で、プロデューサーで、最高責任者です。

なんて偉そうなことを言ってみる。

コンサートの公演というのはそれをやる意味は一つではなく、いろいろある。それはどこのプロオーケストラにも各々にいろいろある。

わたしは今まで公演をやってきて、公演をやる意味の主軸がある。それは、

「雇用を生み出すこと」

コンサートというと、多くの人にクラシック音楽を知ってもらいたいとか、そういう漠然とした主張や理由を挙げがちなのだけれど、わたしはそんな嘘くさい方針が大嫌い、というかひどく無責任であると感じる。

公演をやるということは第一にチケットをできるだけたくさんの人に買ってもらって、雇用を生み出すことなのである。

コンサートを開催しようとすれば実は簡単なことで、演奏者たちが自主開催だってできる。日にちを決めて、場所を借りてやれば一応コンサートはできる。

ただし、その行為が雇用を生み出しているか?となるとちょっと難しくなる。

雇用を生み出すとはすなわち報酬を支払い、演奏者の生活に必要な金銭を生み出し、渡すということ。

演奏者なんてどんなに超絶技巧の曲を弾けたところで不器用な人間で、要するに楽器しか弾けない。それしかできない。他のことなんてできやしない。

だからこそ、演奏だけで食っていくのは容易でない。腕前が良くても難しい。だから後進の育成なんてカッコつけて、レッスンをする。レッスンをしたほうが儲かる。レッスンをしないと食っていけない。自分一人くらいなら食っていけても結婚して子供がいるとキツい。

もちろん自分が培ってきたものを「伝えたい」と強い意志を持ってレッスンする場合も多々ある。

そういえば、随分昔、あるプロオケのコンマスと話していて、

「僕は弟子に男は取らないんです。女の子しか取らない。なぜなら、食っていけないから」

とはっきりと言っていた。

この人はしっかりしているなと思った。

生半可にバイオリンなんか目指して、それで食っていける確率は低い。プロ奏者にもピンキリだし、本当に演奏だけで食える人は少ない。だから男がバイオリンのプロを目指してなれなかった場合、マジで食えないようになるから男の弟子は取らないという。

でも女はバイオリンをやっているとイメージがよく、金持ちとまではいかなくとも婚活の材料にはなる。結婚してしまえば食いっぱぐれない。

そういう話である。

令和になってもまだ女は結婚したらなんとかなるという風習があるのは事実だし、婚活に躍起になるのも女で、結婚していないことに焦るのは女であり、男はそれほどでもない。

とまあ、プロ奏者になれた限られた人たちを社会が養うのもそう恵まれたものでない。N響とかスポンサーが潤沢なところでないとプロオケと言っても給料は多いものでなかったりもするわけだ。

具体例を挙げると、某プロオケがオーディションで募集をかけていて、その初任給は16万5千円であった。そこから所得税や社会福祉が差っ引かれる。

さて、公演の意味の話も戻ると、雇用である。わたしは第一がそれであると考えるべきだと思う。それが第一でないと、主催者が単に音楽好きで、コンサートをやりたいからというだけで手弁当になったりするから。

だからこそ、わたしはチャリティーコンサートなるものが大嫌いである。ついでにいうと行政がやっているような小さな区民会館で近所の老人相手にやるような「入場料:無料」というコンサートが大嫌いである。

チャリティーされるべきはウクライナではなく、生活保護者ではなく、年金受給者ではなく、演奏家である。食えない演奏家である。

自分が演奏でキツキツの生活であるのに他人のためにチャリティーなんかやる暇はないだろう。やるなら金のあってギャラがなくても困らない奏者がやればいい。もしその奏者がチャリティーという慈善活動が好きなのであれば。

音楽というのは芸術でありながら趣味にも通じてしまうので、「音楽やりたい」が優先されやすい。それは事務局も演奏者にも共通してある。

しかしそれが先行すると左翼リベラルみたいな発想になって、理想は高いけれど現実は貧乏なんてことになる。そういうのは大変まずい。

コンサートの規模によって報酬は変わるけれど、まずは公演をやることで雇用を生み出すと考えないと音楽は続かない。

いくら素敵な曲があってもそれを奏でる演奏者がいなければ音にはならず、そのためには演奏者をちゃんと生活させてやらないといけない。

であるからして、音楽が廃れないようにさせるのはまず「雇用」である。

これは音楽に限らず、すべての業界に言えることで、ブラックな環境で有名なアニメ制作なども改善されないといけない。

失業率が増えれば、まず潰れていくのは文化芸術分野であって、その現実に対して「音楽は人を幸せにする」から必要なんだなんて言ったところで怪しい宗教と変わりない。そうではなく演奏者が生活できるくらいの社会の経済が活性化することが大事で、それがないと可処分所得が少なくなるとコンサートチケットを買える人が少なくなる。

とまあ、新しいプロのオーケストラを立ち上げて、その旗揚げ公演をやることによって雇用を生み出すことになる。公演は年に一度か二度できればいいくらいだから演奏者に固定給とはならないが、ジェネオケの公演に出てくれることでボーナスくらいはあげられる。

ジェネオケのメンバーはかなりの実力者ばかりで、みな第一線で活躍している奏者だから、そんなに金には困っていなさそうだけれど、でも仕事があるというのは大事なことだ。

みんなは音楽に没頭できる恵まれた経済状況にあるかもしれないが、創設者としてのわたしはみんなプロなんだから雇用が生み出た場としてジェネオケを捉えておいてほしい。音楽やりたいだけの無責任さはないと思っておいてほしい。

ちゃんと報酬を受け取った上で、わたしたちの音楽を創ろう。うちは慈善団体じゃない。しっかりといい演奏をしてそれに見合う価値としてお客さんからチケットを買ってもらい、音楽をやっていこう。

チケットが売れず、採算が合わなくなり、これじゃ報酬を払えないとなるならわたしはジェネオケはやめちまう。その場合は、

「ごめん、雇用を生み出せなかった。力及ばずで公演は諦める」

とみんなに伝える。

物事には潔さが必要で、続けることを目的としてはいけない。採算が合わないものを理想だけで続けることを目的とすると惨めなものである。当然、演奏のクオリティだって上がらない。

さて、プロとは何か? NHKの番組で訊かれそうな問いかけ。

わたしは一言で、

「金をもらえること」

だと思う。

プロは金をもらって仕事をする。アマチュアは自分で金を払って参加する。

これは根本的なことで、大きな差である。

日本の伝統芸など、例えば日舞なんかは舞台に出るのに自分で多額の金を払うシステムがあるが、こういうのは今話題の悪質な宗教に近い、とわたしは思う。

とにかくプロは金をもらってその技能を生かすことであるが、その収益がどの程度かは各々異なる。

金持ちの亭主を持って、自宅でレッスンし、時折自前のコンサートを自宅で開くというのも金をもらうという点でプロかもしれないが、1ヶ月の生活費として換算すると破綻している場合もたくさんある。

となると、さらなるプロの定義を狭めると、

「もらった金だけで毎月生活できていること」

であろうか。

そんなこともあるが、公演を今までやってきてはっきりと言えるのは、

「富むものは富む」

である。

クラシック音楽は特に左翼リベラル的な雰囲気が強いが、しかし現実は、

「富むものは富む」

という資本主義である。

すごい奏者、集客力のある奏者ほどオファーは集まり、さらにギャラも高くなる。

そこそこ上手い程度はギャラがもらえてもそこそこであったり、そもそもオファーの数が少ない。そうなると結婚式のBGMをやるような仕事に落ちぶれる。

音楽は芸術分野であるから厳しい。人を感動させられない奏者に仕事は来ない。それ以前に主催者を唸らせるような音を出せないと雇ってもらえない。

「うちにぜひ、来てくれ!」

と言われる音を出さないと仕事はない。いくら音大を出ていてもただ楽器を弾ける人にすぎない。

しかし、神様は才能を平等には作っちゃいない、神様は左翼リベラルでない。

だからこそ、音楽がいくら素敵なものであろうと、人口割合から考えても素敵をアピールするにもそんなにたくさんの奏者は要らない。その点、日本はちょっと奏者が多すぎるように思う。無駄な音楽大学も多すぎる。

主催者のわたしだって雇用を生み出すことを第一に考えているが、同時に自分の首もかかっている。だからお客さんを感動させられない奏者は要らない。実力がない奏者は呼ばない。それはどの主催者だって同じであるから、

「富むものは富む」

なのである。

クラシックは雇用を生み出すだけでも大変な分野。それくらい不用不急であるし、なくても生活には困らない。それにクラシックを楽しむ感性はある程度の教養が要る。そういうものなのだ。

いくら音楽をすべての人に伝えたいとカッコつけても、ある程度の水準が受け取り側にないと伝わらないのである。そしてその割合は少ない。これが現実。

だから牛丼屋に比べてはるかに雇用を生み出すことが難しい。

さらにその中で、

「富むものは富む」

という原理が働いている。

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