結月でございます。
結構、人間って好き嫌いで判断しがちなんです。と言っても、それが悪いというわけではない。でも、悪い時も多々ある。
例えば、映画。わたしは映画をちゃんと勉強した経緯があるし、映画というものを好き嫌いで論じることがなく、是々非々というか、出来不出来で観るんです。
だから、全体としては安っぽい映画だけれど、キャメラワークがよかったとか、脚本はクソだけど、美術がよかったところがあるよね、とか。
ところがこれを好き嫌いだけで判断するのは素人、素人なんて言うとすごくいやらしい言い方だけど、でもその一線はある。
どうしても好き嫌いで判断しがち。キムタクが嫌いだから、その映画も嫌いとか。逆にキムタクが好きだから、その映画が好きとか。
わたしが「この女優がすごくいい!」というのは女優としての実力が素晴らしいという客観的な判断で、それと比較してあっちの女優は力不足だななんていう意味なんですよね。
そこで、この女優はイマイチだなぁ、なんて是々非々で言うと、その女優のことが好きな人からは怒られちゃう。
食べ物なんて特にその傾向が出るよね。
自分の味覚の好みで、
「あそこのラーメンはまずい」
なんて言ったりする。
あそこのラーメンは薄味で、こってりな豚骨が好きな自分としてはあまり食べたいとは思わないけど、ラーメンとしてはすごくよく作ってるよね、とか、そういう言い方ならいいと思うんだけどね。
政治なんかもそれが顕著に出る。
安倍晋三のことがアレルギー的に嫌いな人は、とにかく安倍晋三のことが嫌いで、四六時中、安倍晋三の悪口ばかりSNSに投稿したりする。
中国のことが嫌いな人は、COVID-19のことを「武漢ウイルス」なんて言い方をする。
そういうのって、好き嫌いで生きている典型なのであって、そこに客観的な見方とか、是々非々だとか、善悪でっていう判断がない。
だから、好き嫌いの極論で生きている人はネトウヨとかパヨクになりやすい。
世界は多面的にできていて、事象は単一ではない。
だから、一口にラーメンと言っても、いろいろな種類があるし、一口に安倍晋三と言っても、ダメダメなところもあれば、まあまあいいこともある。
一口に中国と言っても、14億人くらいいる国家だし、何をもって中国だなんて言い切れるものじゃない。
だから、できるだけ客観的に見て、この部分はいい、この部分はよろしくない、といったように好き嫌いという感情を排して物事は見たほうがいい。
そうしないと人格否定につながってしまい、あの人がこんなこと言ってたから、大嫌い!みたいになる。
それって、ものすごく子供だと思うんだけれど、思いのほか、大の大人がよくやっている。
好き嫌いと善悪はまったく別のものだから、好き嫌いを善悪に繋げないほうがいい。
それができるようになると、好き嫌いというものが次第になくなってくる。
そして、客観的に見て、どちらもナイス!という時、そのどちらかを選ばなければならないような時に初めて好き嫌いを出す。
どちらもいいけど、こっちの方が好き!。
最終的に主観的なものに任せる。
ただし、それは主観的に選ぶべき時の話で、そうでない時は好き嫌いを持ち出さずに、まずは是々非々とか、客観的な善悪判断で生きるのがいいように思う。
好き嫌いを善悪に直結させてしまって、結構、差別しちゃってる人、多いと思うんだよね。