結月でございます。
MacBook Proのバッテリーを診断してもらいにアップルへ行く。そして、その待ち時間にApple Watchの話を店員のお姉さんから聞く。
昨年、池袋でも話を聞いたが、最近の新製品も大きく機能が躍進したというものでもなく、
「あっても使わないな…」
と、一年前と同じ感想。
しかし、わたしはApple Watchはほしいとは思っている。要するに新しいものが好きだから、使うアテがなくても腕につけておきたい。
もし腕時計を買うとするなら、これにする。
と言っても、スマホがある今、腕時計はまるで必要なく、しかも今は栃木で引きこもりライフであるからますます時間を気にしない大雑把な状態にある。時計を見るのはせいぜい保育園のお迎えの時間くらい。
東京にいて、忙しなくビジネスをする人ならあったほうがいいのかもしれない。
しかし、東京でもApple Watchをしている人はそんなに頻繁に見かけないので、やはり「要らない」ものなのかもしれない。iPhoneよりできることは少ないし、そもそもiPhoneで事足りてしまうからだろう。
というわけで、わたしがApple Watchがほしいとは思っている理由はファッションであり、身につけていればなんとなくイケてるように見えるんじゃないかという浅はかな動機。
さて、小さな愛娘の日々の成長の早さと一緒に過ごしていると、愛娘ではなくわたし自身がこれからどうなっていくのだろう?と未来のことをよく考える。
あと13年ほどで今は小さい愛娘は大学に入る。当然、栃木から離れるわけで、日本なら東京の大学だろうし、外国へ行ってしまうかもしれない。でもまあ、外国へ行くとしてもまずは日本の大学だろうから東京だろう。
愛娘が大学へ行ってくれると、わたしは自由の身になる。もちろん金は工面してやらないといけないが、今のようにクルマで送迎したり、食事を作ってやったりということはない。受験を心配することはなく、あとは勝手に自分でやってくれという状態。
そうなるとやっぱり住むのは奥日光かなと思いつつ、13年もあれば人間は変わるし、生きる環境も変わるし、社会も変わる。だから今、想像している通りになるわけがない。
大学に入ったときは自分が東京に行くとは思っておらず、大阪に戻ろうと思っていたし、でもフランスへ行って帰ってきて、田舎にいてはいけないと思うようになり東京になった。
東京に来たときは職がなく、というか就職活動をしていなかったので警備員をやって食いつないでいたりして、それがいつしか銀座に店を出すようになったが、巣鴨のカプセルホテルで警備員をやっていたわたしは自分が銀座で店をやるなんて想像すらできなかった。
銀座で弦楽器の店を開き、法人成りして、まさか自分が着物を始めるとは思っていなかった。そのままずっと着物で行くと思っていたら、どういうわけかコンサートをやるようになった。着物の事業のために呉服の勉強をしていた頃にはこれまた想像すらしていない。
小さなコンサートを重ねていた頃はうちに来てくださるお客さんが楽しんでくれればいいとしか考えていなかった。クローズドでいいと思っていた。でも、週刊プレイボーイ元編集長の島地勝彦さんと親しくなって、それをきっかけにN響のマロさんに再会するとクローズドなコンサートではなく、オープンなコンサートをやるようになった。
そして、サントリーホールで大きなコンサートをやり、もうこんなに満足したら音楽はいいやと思っていたら船橋市民ホールから依頼が来てまたコンサートをやることになった。それが終わると、愛娘のために急遽東京を引き払い、栃木に来ることになったが、栃木の場所さえ知らなかったくらいで、まさか自分が栃木に来ることになろうとは思いもしなかった。
栃木に来たら東京で築き上げた地盤を失ってしまい、さらに東京でやってきたことは栃木では求められないのでやることがなくなってしまった。育児だけに忙しい日々である。
そしたらコロナが始まった。そんな新型ウイルスが蔓延するなんて、もちろん考えられなかったし、ただでさえやることがなかったのに着物なんて着て出歩く世相でなくなった。
そんな中、モーツァルトのレクイエムをやれる状態になった。コロナで音楽の着物もダメだなと思っていたのに逆の展開になった。
そして今、わたしが自分史上、最も大きな仕事に取り組み始めている。諸々が決まったら発表するが、この企画もわずか1ヶ月前に方向性が決まったもので、その2週間前は別の企画で動いていたがうまくまとまらず、しかしまとまらなかったからこそ、生まれた企画なのである。
昨年の11月下旬にレクイエムが終わり、年末までにその事務的な後処理を終わらせ、今年になって1月は「やることがないな」なんて悠長に思っていたらそうでなかった。新しい企画に取り組める条件が出てきたからである。
そしたらあーだ、こーだとやっているうちに瓢箪から駒。エキサイティングな仕事に取り掛かることになる。
振り返ると、すべて「思いもよらぬ」ことで進んできて、瓢箪から駒の連鎖なのである。
栃木に来て、
「こんなところでアタシ、どうないせえっちゅうねん」
と、当初は些か絶望したけれど、瓢箪から駒で今は栃木にいてもビッグなことができてしまう状態になり、しかも東京のときとは比べようもないほどランニングコストが低くて済む。
そもそもコンサートはコンサートホールでやるものだから、それを企画するのはMacBook ProとiPhoneがあればできる。銀座に店舗はいらないのだ。
それに栃木だと愛娘の面倒を看ながら仕事ができる。東京にいたらちょっとそこまでの余裕がない。
だから、将来のことなんてわからない。当時は予想していなかったことばかりが起こっているのだから。
映画『カサブランカ 』で、ハンフリー・ボガート演じるリックが、バーの女から、
「昨日はどこにいたの?」
と尋ねられると、
「そんな昔のことはわからない」
そして、
「明日はどうするの?」
と尋ねられると、
「そんな先のことはわからない」
と答えるシーンがある。先のことなんてわかりやしない。そうなると思っていてもそうはならない。そういうつもりでいてもそうはならない。人間の将来は不確定なものなのだ。
最終的に人間には自分の寿命がわからない。平均寿命はあれど、それが自分にどう当てはまるかはわからない。健康であった人がいきなり脳梗塞で死ぬこともあれば、余命宣告されてもそれを超えて生きる人もいる。
しかし、どうであれ人間は必ず死ぬものであり、死に到達するまでの間、すなわち生の時間がどのようなものになるかはわからない。
わたしは愛娘が大学に行くまでの13年間は栃木にいるだろうが、そのときは奥日光は選択肢にないかもしれず、他に興味がある土地が発生し、そちらにゾッコンになって移住するかもしれない。
親の関係で京都に行かねばならないかもしれないし、パリで暮らすかもしれない。
憧れの楼蘭に行くためにその拠点として敦煌に住んでいるかもしれない。
そもそも仕事だってわからない。13年後は京友禅は今以上に衰退して、ほとんど生産されないものになっているだろう。結美堂の着物を染めてくれる工房だって13年後は社長の年齢を考えたらない可能性が高い。
コンサートはどうだろう? クラシックファンのコア層である高齢者は13年後はほとんどが亡くなっている。となると、このままだとコンサートという事業が成立しなくて、13年後はわたしはコンサートの企画なんてやっていないかもしれない。すると、その頃は音楽から完全に離れ、今では想像もできない種類の仕事をやっているかもしれない。
どうやら人間ひとりに関して言えば、長期的視野はあまり当てにならず、変化の中で生きるしかないようである。
その変化を楽しめるか、楽しめないか。変化を歓迎するか、変化を憂えるかで人の生き様が違ってくる。
わたしはそんな変化を肯定しながら、死までの道のりを逆算して生きようと思う。自分が死ぬまでに何ができるのか。思いのほか、それほど多くのことはできないかもしれない。
そして、どれだけ大きなことをやったとしても、それは終えたら処理済みのものとなり、自分の中の記憶としては「そんなこともあったね」という程度の感覚になる。
でもそうなってもよく、なぜなら取り組みはやっている最中にこそ価値があるから。
だから、将来のことを決めてしまわず、今まさにやりたいこと、やれることに専念する。そして、ふとした時に振り返ると、いつの間にかこんなところまでやってきたんだと思える。
人の生は、下山のない山登りみたいなものである。