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ほしいと思ったら買うしかない。

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結月でございます。

人間には物欲というものがあって、人によってはクルマを何台も持っている人もいるし、体はひとつなのにクローゼットは洋服でいっぱいだったり、下駄箱はピンヒールで満たされている女もいる。

物欲は病的なところもあって、買い物依存症も考えられる。そして使いもしないのにモノばかり増えて、リビングなのに荷物置き場のようになることもある。

とまあ、物欲にも程度があるわけだけれど、ストレスが溜まっていると無闇に買い物をして無意識に発散させるケースもある。

わたしは物欲がほとんどなくて、というのはもともと物質としてのモノでほしいものがあまりなかったし、ほしいものはとりあえず買って持っているから目的達成しており、ほしいものはない。

とはいえ、いろんな物事に接していると、これがあればいいなと思うことに遭遇し、「ほしい」と思うことがある。

例えば、一昨年買ったのはダイソンの掃除機で、猫が3匹いるものだからこの掃除機があればさぞや助かるだろうと思って買った。その結果、ダイソンには大変満足していて、掃除が楽になった。

あとは宇都宮の趣味の悪いものしか扱っていないアパレルセレクトショップで、自分のキャラにまったく合わないアメリカ海軍仕様のジャケットを買ったが、田舎の栃木では東京のようにヒートアイランド現象もないし、満員電車で移動することがないため冬は寒く、アメリカ海軍仕様を買ってとても役立った。先日、クリーニングにも出した。

最近ではツヴィリングの極上の包丁を買い、砥石まで揃えて食材を切ることを楽しんでいる。

ちょっと昔だとMacBook Pro、さらに一昨年、MacBook Airを買ったが、大変使いやすいし高性能だし、申し分ない品質でこれまた大変満足している。これがないと仕事ができない。

とまあ、近年の買い物でほしいと思って買ったもので思い出すのはこれくらいだろうか。

あとは小さな愛娘のために金を使っていて、それでも無駄だと思えるものはほとんど買い与えないし、今後の将来につながる可能性と理由があるものをできるだけ買ってやるようにしている。

ともかく、わたし個人は物欲で物質を得ることより、自分がやった成果、影響、感動、そういったものを得るほうが価値があるから、非物質をやり遂げるために物質を使っているというところだろうか。

とはいえ、「ほしい」と思ったものはある程度は熟考し、調べてから買う。思いつきで買い物することはない。いわば、

「あっ、この服、ステキ!」

と、通りがかりで買うようなことはしない。

ただし、その瞬間に買っておかないと次は手に入らないと思うほどその場で惚れ込んでしまったものは買う。

3年ほど前、結美堂ガールズで京都に行ったが、三条の老舗人形屋で見かけた招き猫に惚れてしまい、その猫の表情がなんとも好みで買おうかと悩んだが買った。

それは「京都・小田益」が作ったもので、同じ招き猫は複数作るらしいが、顔の表情はひとつひとつ手描きであるからそれそれ微妙に違う。わたしは三条のその店の、そこに飾ってあった猫に惚れて、それはこの世でひとつしかない。

招き猫なんてあっても実用性はないが、なんともその猫の表情がいいのである。

確か3万5千円ほどだった。それは結美堂の玄関に飾ってある。

本当に自分がいいと思って、本当に気に入って、どうしようか、買おうか買うまいか迷うときは買ったほうがいい。というか、買うしかない。

なぜなら、ほしいと思った情念は買って手に入れることでしか処理できないから。

それを処理しないと「どうしよう、どうしよう」と迷うことに時間を費やし、時間が無駄になる。さらに買わないと買っておけばよかったと後悔する。

そういうネガティヴなものをなくすには買うしかない。

買って手に入れた瞬間にその厄介な情念は昇華する。

でも、その物欲が病的であったり、思いつきであったり、軽はずみであったりすると無駄な買い物となり、ただの浪費になる。

そういう買い物は「脈絡」がないから良くなくて、自分の行動に添う物質なのだから買い物には脈絡がなければならない。

例えば、スーパーに行って今日はカレーだと思ってその食材を買ったが、白菜が特売だから白菜も買っておこうというのは脈絡がない。

たかが数十円の割引に惹かれて、使いもしない白菜を買い、結局冷蔵庫で眠ることになり、いい加減調理しないといけないと思った頃には鮮度は落ちて食べてもおいしくない。

これは金を価値基準にするがために不幸になるケースである。

あとはできもしないこと、もしくはその物質を使いこなすのに猛烈な努力を要するものを買うのは考えなければならない。

楽器商をやっていながらこう言うのもなんだが、思いつきでバイオリンを弾いてみたいと思ってバイオリンを買っても、それは練習という名の努力をしないと弾けるものでない。その覚悟と継続できる生真面目さがないとその買い物は無駄になる。

使いもしないピアノが家にあったり、もはや置物となったギターが部屋にあったりするのは悪い買い物で、楽器は少なくともここまでは弾けたという自分なりの到達点に達しないと無駄になる。

本もそうで、買ったけれど読まないというのは愚かであり、しかしそういう人が多いので出版社はなんとかやっていける。

しかしまあ、人それぞれで目移りばかりして買い物を繰り返し、ほとんど使わないまま転売する人もいれば、ひとつのモノを使い切るというタイプもある。

わたしは後者であるが、きっと買い物を繰り返すと忙しなくて、落ち着く暇もなく、非物質的な目標をやるのにそういう精神状態だとやりにくいからだろう。自分が納得して買って、満足しながら使い続けていると精神は落ち着いてきて、物事に集中できる。

どちらがいいかはわからないが、無駄な買い物を繰り返すタイプは経済に貢献してくれるのはいいとしても、ちょっとわたしは勘弁してほしい。

例えば、ルックスが素敵だなと思う女の人の家に行って、クローゼットを垣間見たらそこには洋服が煩雑なほどに溢れかえっていたら幻滅する。

北川景子は「服を一着買うときは、服を一着捨てる」という話を聞いたことがあるが、それは本当か嘘か知らない話だけれど、そういう循環をしないとクローゼットは肥溜のようになる。

しかし、今は物質の生産がマスプロダクションであるから、安っぽくて、芯から個性があるものがとても少ない。その典型が100均であるが、そういうものをたくさん持っていても価値はないし、たちまち家が倉庫になる。

結局のところ審美眼であって、本当に価値あるものを見抜くための眼、そしてそれを得るには文化であって、文化がないと良し悪しがわからない。わからないとチープで無駄なものを買ってしまう。

審美眼があれば、この世の中にはそうたくさんほしいと思えるクオリティはないことがわかる。

そして、いいクオリティのものこそ、同じようなものはたくさん求めない価値があり、それがひとつあれば十分にこなせる実力が備わっている。

そんないいクオリティのもので「ほしい」と思ったなら買うしかない。身の丈に合わない金額なら駄目だが、頑張れば買えるくらいのものならさっさと買って、思い悩む無駄な時間を処理すべきなのである。

そして、購入したらその品物を大事に使い切る。

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