結月です。
自分の過去というのは恥ずかしいことの蓄積であって、得てして人間はネガティヴなことは忘れない。いや、それでも忘れるものであるけれど、ちょっとした瞬間に一気に鮮明に思い出すことがある。
そのきっかけはネットのニュース記事であったり、電車の中の広告であったり、誰かと話していたときの何の変哲もない単語だったりする。
先日、写真家の篠山紀信が亡くなったというので、ジョン・レノンとオノヨーコのキス写真を偶然見てしまって、わたしは自分の大学生時代の行為を思い出し、たったひとり赤面してしまったのである。
それが何であるかはここに記してもいいが、記すとまた恥ずかしくなるのでやめておこう。記したところでどうってことない行為、「なんだ、そんなこと」くらいに違いないが、でもやっぱりその行為は標準よりは抜きん出ていて、当時は普通の人がやらないことをやることに興奮を覚えていたから喜んでやっていた。
とはいえ、この年になると若さのゆえとはいえ、恥ずかしい。
わたしは今頃になってやっと自分が大人になれたと思う遅れた人間で、であるからこそ、いわゆる「若い頃」はかなりヤバい人間だったのである。
人が敬遠するデンジャラスなことにこそ、価値を見出し、踏み込んでいく。あの頃はYouTubeがない時代だったからよかったのであり、もしYouTubeがあれば激ヤバ動画をアップし続けているに違いない。
だから、イカれたユーチューバーの気持ちも意外と等身大にわかってしまうのであるが、
「外道に行かずに済んだ」
のが不思議なくらいで、今振り返れば、完全にヤバいところまで行かずに済んだのは、文学作品やクラシック音楽、演劇、映画など文化的力がわたしにあったからだと確信する。
そうした文化に並々ならぬ興味があったから、本当にヤバいところまでは行かなかった。と思うのは、本当にヤバいところまで行ってしまった人に共通するのは文化の「無さ」だからである。
というわけで、
「ヤクザな道は、踏まずに済んだ」(byヨイトマケの唄)
なのである。
しかし、人間はヤバさがないとおもしろくないもので、それはスパイスと言っていい。
ヤクザな奴ほど女にモテたりするのも、スパイスが利いているからだろう。
であるからして、わたしは人間はヤバさがあるほうがいい、と考える立場であり、犯罪的なヤバさもおもしろいはおもしろいが、人がやらないことをやる「ヤバさ」にはいつも興味がある。
わたしが大学生時代に犯した「恥ずかしさ」は当時の学生レベルのヤバさであって、社会的にはどうってことなく、ただのアホである。だから今、恥ずかしく思う。
社会的な「ヤバさ」こそが社会を動かすに違いなく、もしかして今の日本に足りないものはそれじゃないか。
ところで。
人間はきっと恥ずかしいことの蓄積が「人生」であり、
C'est la vie !
と叫ぶが、
「恥の多い生涯を送って来ました」(by太宰治)
と言い訳するが、誰しも恥ずかしい思い出はあるが、得てして他人がそれを聞くとどうってことないようなことばかりである。
たとえヤク中になって刑務所に入ったとしても、そういう事例は多々あるので、そんな体験談を聞いたってどうってことない。であれば、刑務所レベルでない個人的な恥ずかしさはあまりにも些細なことで「取るに足ら」ないわけである。
そんなことを恥ずかしく思っているのは自分だけで、そんなことでメンヘラになっている人がいたりするのも実は馬鹿馬鹿しい。
それどころか恥すらもないような人間は「無難オンリー」であるから、
「しょーもない人間やな!」
と思われるに違いなく、無難というやつは何も生み出さないからおもしろくも何ともない。
さて。
「恥の多い生涯を送って来ました」的なわたしであるけれど、後になって恥ずかしいと思う行為を今の自分がやっているかは現段階ではわからないものである。そういうのはタイムラグを伴ってわかってくる。
小説家がある程度の年になって自分のデビュー作を読むと、穴があったら入りたい気持ちになるのと同様に、当時としては一生懸命なものだからその時点ではわからないのである。
こう言っている現時点のわたしのことも、あと20年したら恥ずかしい行為かもしれず、でも今は別に恥ずかしいと思うことはやっちゃいない。それどころか、今の自分は昔の自分と比して「ヤバさ」が薄れた気もする。
それはきっと「ヤバさ」がありすぎると人から信用されないから困るとか、つまり自分がある程度の責任ある立場にあるからかもしれない。
なるほど、会社ではポジションを与えられると人が変わるのと同じである。
でも自分としては「ヤバさ」がないとおもしろくないし、ヤバさがないところには魅力がない原理もわかっているから、猫を被るテクニックを覚えたかもしれない。
いやいや、そうではなく実務的なことをしっかりしないと本格的な「ヤバさ」を実践できないことを知ったからちゃんとやるところはちゃんとやるようになっただけとも言える。
しかし思うに、わたしが年上の人とつるむことがなくなったのは寂しい。自分より年上の人が寿命が尽きたり、現役を退いたりしてつるめなくなったのである。
わたしより年上の人はガチな昭和世代で、やっぱりヤバい人がいた。そんな人たちから可愛がられたりしたが、もう令和も6年。わたしが年上と言われるようになり、必然的に年下ばかりになってきた。
ところが年下は時代的に「ヤバさ」があまりなくて、無難な傾向にある。世間体を上手に考えているところがあるのはSNS時代だからだろうか。
まあ、それも時代ってことで仕方がないが、コンプライアンスに縛り付けられておもろいことができない芸人みたいである。
さて、過去の自分の恥ずかしいこと。それは修正できないから、自分の人生にある刺青みたいなものである。
でも、そんな恥ずかしい行為のことを覚えている人はおらず、それを目撃した人に話したって、
「そんなこと、あったっけ?」
と、告白して損する羽目になる。
そこが伝説とは違う点で、どうせやるなら伝説になるようなことだろう。
悪名は無名に勝る的な伝説。
それくらいのものでもどうせ忘れ去られるものなのだから、人間の生きた痕跡などその程度のものである。
しかし、年を取るとその分、過去の蓄積が多くなるから必然的に恥が多くなる。
だから、思い出してしまう恥ずかしさも増えるわけで、
「恥の多い生涯を送って来ました…」
という気持ちになるのは当然で、それゆえに自殺しようとまでは思わないが、
「生きててもしゃーないな」
という気持ちもわからなくはない。
そういう葛藤を抱えつつ、まだ生きているから恥の蓄積を進めようと思う次第である。