結月でございます。
今年は大きな仕事ができるかどうか、それは現在取り組み中で、実現が確定すればとても忙しい残りの2021年になりそうで、万一実現できなければ退屈な残りの2021年。
今、その実現に向けてのハードルを超える準備をしていて、順当に行けば大丈夫なはずだけど「もしも」がないとも言えず、不安ではないソワソワした感じ。
それが何かは取り組み中だから公にはまだできず、それでもこんな思わせぶりにも見えるようなことを書いてしまうのは、わたし自身が早く走り出したくてウズウズしているから。
というわけで、ひと月近く前に別件でいろいろやろうと思っていたことはちょいと後回しになって、それでもまあ隙間の時間をうまく見つけてチョビチョビとやる。
しかしまあ、いずれにせよ人間というのは暇になるとつまらないことばかり考えるもので、だからそんなつまらないことを考えないくらい忙しいのがよろしい。
とは言え、つまらないことに忙しいと情報を得る時間がなくなり、しなくていい損をしてしまったりもするから、クールに世の中の事象を眺められる余裕はほしい。
さて、人間には「情念」があって、これは使いようなのである。
物事の判断は情念でしないほうがいい。
「大丈夫。大丈夫よ、きっと」
なんて、スピリチュアル上から目線のような慰めをする人を時折見かけるが、これは情念でいい加減なことを言っているだけで、根拠もないし、無責任。
大丈夫か大丈夫でないかは、客観的に分析した情念なしの思考によるべきで、ここは絶対に間違ってはいけない。
さらに言えば、情念で迷ったり、悩んだりするのもいいことではなく、これは堂々巡りで結論が出ない。
では情念をどのように使えばいいかとなると、それは客観的な判断を実行するそのエネルギーに使うべきなのである。
客観的な分析は正確性は高くても、それを実行する力は弱い。だからクールな頭で考えて、熱いハートで動き出すのがいい。
これが逆になるのが大半らしく、考えなくていいようなどうでもいいことを情念に任せ、確証のないことで人を安心させて自分が気持ちよくなったりして情に流された判断を促したり、いざ何かをやるとなったらそこに情念のエネルギーが注がれない。それじゃ、何もできやしない。
不安という情念の中にいたとして、それを解決するのは情念でなく理屈なのである。
不安が発生する源を突き止めて、それを紐解いて、どうすればその不安がなくなるのかを理詰めで考える。これは医者が病気を治す道筋を考えるのと同じ。
それなのにこのお守りを持っておけば大丈夫だとか、このサプリを飲んでいれば病気にならないとか、理詰めで説明できないことに頼ろうとする人は多い。
情念とはエネルギーであり、思考ではない。
この区別はとても大事なのである。
なんて生意気なことを言ってしまうが、わたしも昔は情念派で、情念が占める割合が多かった。
これは文系の人間にありがちかもしれない。しかし、自分もちょっと理系っぽくなったといつしか思うようになった。
とは言え、理系っぽいだけだと色気がなく、頭脳は理系で、ハートは文系くらいがいいのではないか。
コロナにしたって専門家の言葉が一般大衆に響かないのは、文系的なハートが乏しいからで要は色気がない。
その反動からか、バラエティ番組は事実が怪しい情報を色っぽく煽るわけで、そのほうが視聴率がいい。
さて、随分な大人になって理系的な考え方を取り入れることができたわたしだけれど、非理系的な時間が人生で長かったせいで無駄な年数を重ねてしまったなとちょっと悔やんだりもする。
要するにもっとちゃんとしていればよかったのに情念が強くて無頼派すぎた。
というわけで、なんだか最近やっと成人した気がして、逆に考えると「自分は若いな」って思う。
さあ、成人したばかりだから、これから頑張ろーなんて思っている。
もし、若い頃からちゃんとしていた人はきっと年相応にきっちりと歳を取るだろうから老けるんだろうな。
そう考えれば、未熟期間が人より長かったのは結果的によかったんじゃないか。
「真面目に生きるぞ!」
なんて今頃になって言いつつも、やっぱり真面目でなさそうなのは世間基準から照らし合わせるとまだまだだらしがないからかもしれない。
このままだと寿命が尽きることにようやく中身は世間的な40歳くらいだったりして。