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数学が大事なことがわかった今頃

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結月でございます。

YouTubeを眺めていたらどういうわけか高校受験の数学を解説する動画に出会った。どこかの予備校講師がやっているチャンネルで、教え方がうまく大変わかりやすい。

今はYouTubeでこうしたいい動画があるから、意識さえ高ければ塾なんて要らないのかもしれない。もし塾という場の強制力がないと勉強しないタイプなら塾に通ったほうがいいのだろうけれど。

さて、今日見た動画は、図形の問題で重なり合った図形の一部の面積を求めるものだった。

それを見て、

「ああ懐かしい。やった、やったよ、昔」

なんて思いつつ、それがなかなかの難問で講師の話に聞き入りながら問題を解くことに参加していた。

これでも中学生の頃は数学が得意科目だったわたし。しかし、定理などすっかり忘れているから解けそうで解けない。中学生の頃なら解けていたと確信するのは自分が劣化したということか。

でも、使わないと忘れてしまう。そう言えば、先月だったか池袋のジュンク書店で自分の大学の赤本を立ち読みして、まったく解けず、昔はこんな問題も解けたのかとショックを受けた。

とまあ、中学の数学も解けずにいて、解説を聞くとなるほどとすぐわかるにせよ、単独では解けない。大学生のときは中学生や高校生に家庭教師として数学を教えていたのに、なんたる様か。

しかし、忘れてしまった数学とはいえ、YouTubeを見ながら脳味噌を使うと心地よく、暇つぶしに中学校の数学をやるのもいいかと思ったり。

そして、解説を聴きながら数学というのは絶対にやっておいたほうがいいと悟った。

大人になってから数学なんて、それは図形も数列も微分積分も実社会では使うことはまずない。

そんな使わないことをどうして学校で学ばなければならないのか?というのは厨二病的な発想であるけれど、中学生なら当然抱く疑問。

しかし、図形問題を説いていくその複雑なプロセス、それを説いていく解決策を見出していく感覚は、大人になって事業をしたり、企画を進めたりするそれにそっくりであって、数学の定理は頭から忘れてしまっていても、それを解いていく頭の使い方はしっかりと残っていて、しかも大人になってちゃんと使っていることが今日わかった。

問題の解を見出していくために必要なものをひとつずつ得て、それを用いながらさらに次の必要事項を見出し、最終的に解にたどり着く。

これはまさに事業や企画と同じじゃないか。

なぜなら、それらは思い通りにいくことはまずなく、いろんな問題にぶち当たりながら解決への道筋を考え、ひとつひとつの問題を処理しつつ進めていくのだから。

これはまさしく数学で培った頭の使い方であって、話してみてどうも話が通じない人というのはきっと数学をやっておらず、数学的な解決策、数学的な話の進め方から逸脱しているからなのではないか。

逆に数学をちゃんとやっている人とはわりと簡単に話が進む、そんな気がした。

実はわたしは超絶文系な人間であるのに、理系出身の人のほうが付き合いがあって、文系人間とはそれほど仲良くなれていない。

それは自分が知らない理系知識があって話してもおもしろいとかがある。加えて、理系の頭脳のほうが理屈がしっかりしているから話しやすいのだろう。

わたしも超絶文系だったのが、事業を自分でするようになり、文系脳だとうまくいかないことを嫌というほど思い知らされ、いつしか理系もどきになっている。ついでに言えば、プログラマー的思考も身につけたと思う。

ワクチンを打つのが怖いとか、そういうのも数学的に考えればあり得ないわけで、mRNAワクチンがどんな構造で、どんなプロセスで効果を発揮するなど理科的な見方をできないから非科学的な恐怖を抱くのだろう。

ところであまり言うと怒られるけれど、わたしは私立大学というのをあまり認めていなくて、大学というのは国立であるものと思っている。

それは入試にセンター試験があるからで、国立大学に入るには文系理科系関係なく5科目を受験しなければならない。

文学部のわたしも数学や生物は勉強したし、理学部の同級生だって国語や世界史は受験している。

さらに今は変わってしまっただろうけど、わたしの頃は国立大学が法人化されていなかったので、全学部生が教養部に2年通わなくてはならず、文学部所属でも大学で数学はやっていて、その単位を取らないと進級できなかった。

ところが私立大学というのは入試が文系なら英語、国語、社会だけでよろしく、数学がない。理科もない。つまり、私大の文系は数学をやっとらんわけである。

たった3科目で偏差値が高いとか、アホ言うなよ、とわたしが思っていて、例えば私大の経済学部や経営学部なのに数学をやってないとか、料理学校に入るのに魚の捌き方を知らないのと同じじゃないか。

やはり一次試験で5科目をパスし、さらに二次試験をパスしてやっと合格できる国立大学とたった3科目を集中してやればパスできる私立大学とは根本的に違うものがある。

だから、社会人になって私大卒と国立大卒と話したり、仕事したりすると、その人の持つ雰囲気というか考え方は明らかに違っていて、私大は私大、国立は国立の差がしっかりとある。

やはり国立大卒のほうが骨太感がある。私大卒は有名校でも表面的には賢そうに見えてもどうも腰が弱い気がする。

とまあ、とにかくも数学はやっておいたほうがその思考の力を養うという点でいいことがわかった。

この間、内閣参与を辞めてしまった高橋洋一さんなんて、東大数学科卒だから考え方が数学的で無駄がない。高橋洋一さんを見ていると、天才っていうのはこんな人なんだとしみじみと思う。さらに名誉欲もないからどこかとぼけていておもしろい。

やはり数学は嘘をつかないというか、数値が違っていれば成立しない学問であるから、データがしっかりしている。

一方、文系人はそうしたデータで考えず、自分の「理念」で話すから、データ無視な頓珍漢なことが多い。きっと批判ばかりのリベラルは文系が多いと思う。なぜならそこには数学的な現実が皆無だから。

理念も必要ではあるけれど、現実を対処することが大事であり、そのリアリズムがないと批判しかしない野党みたいになる。

なんて言うわたしも理念が強いガチ文系だった。しかし、コンサートを主催したりして、理念だけでは客は来ないことを痛感したからで、理念を実現させるにはその現実をどうするかというリアリズムに根ざした理系的な頭脳が必要になったところで自分が変化していった。

コロナ禍というのはそうしたリアリズム、理系的に、すなわち科学的に対応しなければならないことがはっきりとし、同時にその中で非科学的な理念だとか、科学的な裏付けがない主張などによって社会は混乱することがわかった。

だから数学なのである。数学は嘘をつかない。と言うか、嘘を許さない学問なのである。そして、解を求めるための道筋を合理的に見出す頭脳なのである。

数学を勉強したか、しなかったかの差は大人になってから大きい。

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