結月でございます。
公演の仕事の真っ最中であるわたしは音楽というどちらかというと形而上なことをやっているように見える。
事実、音楽の話をすれば形而上ばかりであって、器楽の技術的な話は形而下であっても音楽そのものは形而上。
しかし、公演を開催する業務は実に形而下であり、ふわふわしたものなど一切なく、仕事のツールはExcelだし、お金の計算、お金の予測、書類作成、会場に関する打ち合わせ、原稿チェックなどなど、形而上なものはまるでない。
つまり、音楽そのものは形而上的な側面が強くとも、それを人に聴かせるとなると形而下であり、物質的なことばかりなのである。
企画の発端はイメージという形而上で、音楽的な理想が主役となる。ただそれを具現化するとなると、物質的になる。
わたしはずっと文系、それもド文系で、濃厚な形而上の中で生きてきた。でも、コンサートをたびたびやるようになり、形而下な作業が求められ、結局それをきっちりとやらないと音楽は夢物語に過ぎず、成立しないものだと少しずつわかった。そして今はそれがガッツリと理解している。
モーツァルトがどうだとか、誰それの指揮者の解釈はどうだとか、そういうことにウンチクを垂れたくなるのが文系というもので、形而上に酔いしれる。
それは趣味としてはいいのだけれど、まるで実務力がない。口だけである。
実務ができないと、そもそもウンチクを垂れる音楽をホールに奏でられないのである。
ド文系だったわたしは事務作業がアレルギー的に嫌いだったし、書類などそんなものなくてもハートでわかり合っていればいいじゃないか、と思っていた。
大事なのは理念であり、理想であり、形而下のことなんてくだらない、そう思っていた。
しかし、理念や理想は現実に対してあまりにも弱く、かっこいいことばかり言っていてまるで金は稼げない、すなわち食えない。
食えないことに時間をかけたり、金をかけたりしていると自分が破綻する。そうなってやっと、
「理想なんて言うてる場合やないデ」
と、尻に火がつく。
形而下のことをがむしゃらにやるようになる。現実に対しての実務を考えるようにする。
そうすると次第になんとかなるようになってくる。そして、なんとかなる。なんとかなったら、
「あれ?いつの間にか理想的なことをやれている」
と、驚く。
すなわち、形而上をやるなら形而下をやらないと駄目なのである。
それを公演をやるようになり、心の底から理解した。
理想をやりたいのであれば、現実を対処しなければならない。
しかし一方で、形而下だけの人間も潤いがなくてよろしくない。
価値基準が金だけであって、金になるのであればマナーも礼節も一切考えない、というのも困る。
それはまるで「食えれば何でもいい」に近い。
ただ残念ながら、形而下から形而上は生まれない。形而上が形而下を必要とすることはできても、形而下から形而上は生まれない。
だから、形而下だけになると人間は殺伐となるし、幸福感が低くなる。幸福を考えることが最初からない冷たさもあるかもしれない。
形而上だけで現実がなく、ふわふわしたウンチクばかりというのも困るし、形而下だけで潤いがないのも人として付き合いにくい。
しかし、好きで形而下のみで生きている人はいいとしても、嫌々ながらに形而下な仕事ばかりをしているとふわふわした形而上を求めたくなる。
おそらくほとんどの人が嫌々ながらに形而下の中で生きている。
そんな形而下から形而上を求めると、うっかり悪質な新興宗教に入ったり、怪しすぎるエセスピリチュアルなセミナーに通ったり、占いにハマったりする。
だから、上質な芸術に触れておく程度がいい。
形而上をやりたいならむしろ形而下をしっかりとやること。
形而下の中で生きざる得ないのであれば、怪しい形而上は避けること。
これが鉄則。