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サイレントにほっとする。

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結月です。

大晦日。と言ってもとりわけときめくわけもなく、新年が楽しみなわけでなく、ジェネオケ公演のことが継続中だからわたしにとっての年明けはコンサート翌日の5月7日なのだろう。

それに決算業務で書類やExcelに向かい合ってばかりで、それもまもなく7歳になる愛娘と一緒で捗るものも捗らずで時間がかかる。

とりあえず元旦はお雑煮でも作ろうかと材料だけは買った。でもそれを食べたらまた決算の事務作業。

そう言えば、昨年と一昨年は公演が年内に終わるスケジュールだったから、大仕事終わった大晦日感があったように思う。

とまあ、そんな大晦日に愛娘がテレビをつけると言うので、

「しょーもないもんしかやってないけどね」

と冷や水をかけるが、実際にしょーもないものしかやってない。見る気もしない紅白。うんざりするような第九、などなど。

BSにするとジョン・フォード監督の「荒野の決闘」をやっていた。VHSで持っている映画だし、パリでも見たし、もう何度見たかわからない。それでも久しぶりだったので見てしまう。

随分古い映画だけれど、これぞ映画だなと思うのは、馬が走るところは馬の足音しかしない。OK牧場で悪党たちが待っているところでは何の音もない。荒野のサイレント。もちろん音楽もない。

映画とはこうした静けさの美学があるとわたしはずっと思っているが、今の映画はとにかくうるさい。うるさい、うるさい、うるさい。

説明のセリフはうるさいし、音楽は大袈裟でうるさいし、展開も猛スピードで息もできない。

そんなうるささが煩わしいから、すっかり映画は見なくなってしまった。

でもジョン・フォードの映画は静けさがあるから馬の足音が映えるし、静けさがあるから決闘の前の緊張感がある。

わたしは学生の頃から古い映画ばかりを好んで見ていたので、感覚がずれている。映画とはせいぜい70年代までなのである。

その時代までは映画の巨匠がいたわけで、80年代になるにつれ巨匠になるような監督は出てこなくなった。

しかし、「荒野の決闘」を見ていると、自分がそうした映画にどっぷりと浸っていて、映画のことばかり考えていた頃が嘘のようでもあり、懐かしくもあり、もし一人っきりなら自分が見てきた映画を見るだけで過ごせそうで、まるで寿命間近の80歳である。

やらなければならないことは山積みだし、愛娘はまだ小学1年生だし、一人っきりで映画を眺めて過ごすなんて考えている場合でないが、全部捨てちまってもいいかなと思うときもある。

とは言え、寿命間近の80歳と異なるのは健康であり、肉体的にもまだまだ生きられるところであり、気分だけが時折80歳になる。

と、ショーペンハウアーなんか読んじゃおうかなと思う厭世観が漂いつつ、それを引き止めてくれるのが6歳児である。

小学1年生は見ることなすことが新鮮であるから、楽しそうである。それを見て自分の小学生時代を反復するのであり、二度目を生きているようにも思う。

しかし、人間というのは今、生きすぎているのではないか。平均寿命で80歳超えは明らかに生き過ぎである。

大昔みたいに50歳か長くとも60歳くらいで死ぬのがちょうど人間が余計なことを考えずに死ねる年頃のように思う。

おそらく定年退職ほどの年齢で人生おしまいがよろしい。それなのに医療が発達したり、栄養の行き渡りがよくなったせいで人間はそれ以上も生きなければならず、精神的な寿命は尽きているのに生きなければならないから面倒なのである。

さて、明日から正月。愛娘の学校が始まるのはまだ先であるから、子連れ狼状態で公演のことをやらねばならない。

結構邪魔されたりするものであるが、よく考えれば、

「よく頑張ってるよ、アタシ」

と思ったり、

「音楽で感動をもたらすんだからいいことやってんじゃん」

と納得したり、

「ああ、結局自分の人生だしね」

と、割り切る。

でも、6歳児に邪魔されながらと思ったが、これは邪魔でなく、わたしに発破をかけているのかもしれない。そうでないとわたしみたいな人間は何事もやる気が失せて、昔の映画を眺めるような廃人になるからきっと神様がこのタイミングで愛娘がいるように仕向けたに違いない。

人間は見えない力でコーディネートされている。わたしはそう思う。

そういう目で年を越す頃に眠っている6歳児の顔を見ると、身長125cmなのに大きなものに見えてきたのである。

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