結月です。
ケータイが出てきた頃から腕時計をする人が少なくなって、わたしもそのひとりでずっと腕時計はしなかった。
思えば高校生のときから腕時計をして通学していた。あとは懐中時計も使っていて大学生の頃まで使っていた。
大学を卒業して東京に来てからは腕時計で、1年ちょっとだけ経験した会社員のときまでは腕時計をしていた。しかし、独立してからはPHSを本格的に使うようになって腕時計は自然にフェードアウトしていった。
そんな長らくしていなかった腕時計を再開したのは今年からで、それは「時間」を今まで以上に意識し始めたからだった。
いつの間にか愛娘も小学生になっているし、保育園児のときはいつの間にか年中、いつの間にか年長かと思っていた。時間が進んでいることを如実に感じるのである。
ずっと一緒にいる猫たちも10歳を超え始めているし、そういう自分も年をとっている。
思いのほか、自分に残された時間、自分がやれることをやれる時間は少なくなっているのだなと感じるのであって、ジェネオケの活動もわたしにとっては終活みたいなものである。
もちろん、平均寿命から見るとまだまだと言えつつも、もうそれほど新しいことにチャレンジできる機会はそう多くないし、今やり始めていることだって時間をかけてやることだからそれだけをやるにも大変なのである。
だから時間が一層大切なものになってきた。
そうなると漫然とスマホの時刻を見るのではなく、時計の針を意識するようになり、つまり時間が進行しているリアリティを欲するようになった。
焦って生きているわけでないけれど、時間が少なくなっている、まるで砂時計の砂が落ちていくような感覚。
それは可愛がっている猫の寿命が見えてきたせいもある。
猫が2歳や3歳の頃はまだまだその先を考えられていたが、あと5年か6年くらいなのかなと思うと猫といる時間が貴重なものになる。そして同時進行で愛娘が成長している。
要するに時間が重くなってきた、ということだ。
だから時間を感じていたい。そんな気持ちのせいか、腕時計をする。
秒針が動いている。もしくはG-SHOCKの秒が進んでいる。
それは死に向かっていることの視覚化である。
猫たちの死。
わたしの死。
そして、愛娘の顔を見られるまでの時間。
つまり、この世にいられる残り時間。
できることならずっと猫たちと一緒にいたい。願わくば、自分が死ぬと同時まで猫たちがいてほしい。
しかし、猫と人間はそうはいかない。
だが、死があるからこそ、猫が愛おしくも思える。いずれ死ぬものだから大事にする。
自分も同じく、自分にも死が来るのだから今生きている瞬間を大事にする。きっとそれを大事にできていない人は自分の死を意識できていないからだ。
いい年して不摂生をして健康に気を配れないのは自分の死を捉えられていないからだ。
わたしはジェネオケでもやらなければならないことがまだあるから、そう簡単に死ぬわけにいかない。音楽以上にやりたいことがある。
ただでさえ、自分の残り時間が日々減っているというのに無駄に過ごすわけにもいかないし、病気になってやりきれないなんてことは避けたい、と思う。
そういえば、有名なロック歌手がライブ中に脳出血で死んでしまった。倒れながらも2曲歌ったことでプロ根性なんてコメントも見たが、それは違う。プロであるなら脳出血の原因になっている高血圧などのケアをしておかねばならない。それを怠っているのであれば、プロとは言えまい。
しかし、どんなにケアしていたとしても人間はいつかは死ぬものである。
死というものが着実に近づいていることを猫たちは教えてくれている。
この世での生命が有限であること。それを猫たちが見せている。
腕時計の秒針は周っている。G-SHOCKのデジタル表示は数字を重ねている。
ジェネオケの公演。これはわたしの終活。
予防医療を訴えること。これもわたしの終活。
自分が生きてきて、どれだけのことをできたか、その痕跡を残す終活。
たくさんの人を音楽で感動させ、それを通して無駄に病気にならないことを啓蒙する。そして、命拾いした人を増やす。
自分という人間がこの世にいたんだという実績。