結月です。
エイベックスの松浦会長ってわたし好きなのだけど、松浦会長が昔、病気みたいなものを宣告されて自分が死ぬことを意識したときは人に優しくなったというような話をしていて、これがおもしろかった。
余命宣告されたり、もう自分は長くないと確信したとき、人に対して優しくなる気持ちはなんとなくわかる。
もちろんそうでない人もいて、自分の死を受け入れられないとヒステリックになったり、周囲に当たり散らしたりする場合もあるだろう。
そういえば、戦争末期の特攻隊員は死ぬために出撃するのであり、だからこそ家族に宛てた手紙が感動的であったりする。ほぼ100%死ぬとわかっていることを知ると、もうジタバタすることはなく、自分の大事な人を思いやる気持ちは強くなる。
そんな特攻隊員で出撃準備をしていたら終戦になってしまい、死ぬ予定だったのがいきなり生かされる立場になると、
「俺は特攻帰りだ!」
なんて、ヤクザになったり、ヤクザにならなくとも荒れた生き方をした人が多かったと聞くと、なるほどと思う。
人は歳を取ると丸くなるなんて話もある。逆に歳を取ると頑固になって分からず屋になるケースもあり、それは人の性格なのだろう。
ともかく、死の自覚は人を優しくさせる可能性がある。
もうすぐ死ぬというのにつまらないことに目くじら立てるのも馬鹿らしいし、些細なことに激怒するのも時間がもったいないと感じる。
さて、わたしはかなり昔から死を意識して生きている。死後の世界があることを知っているから、それゆえに今生で生きることを死後から逆算しながら生きている。
死後の世界が楽しみだから、死ぬことは怖くないけれど、今いきなり死ぬのは困る。やることもたくさんあるし、猫もいるし、愛娘もいる。ちょっとまだ死ねない。
だから、寿命くらいでちゃんと死ぬことを目指していて、「趣味・病院」であるのも寿命に辿り着く前に変な病気で死にたくないからというのがある。
しかし、日々大きくなる愛娘を眺めていると、自分の残り時間を昔以上に計算するようになった。愛娘が大学を卒業する頃は自分は何歳になっているだとか、そうすると思ったより時間はないような気にもなる。
今までいろんなことをしてきたとはいえ、これまでの自分に満足している感覚はなく、かと言って不満足でもないが、まだまだだなと思う。やりたいことはまだあるし、楼蘭にも行けてないし、中国の古代史を求めた旅を敦煌からしてみたいし、その他にもいろいろある。
そして自分より確実に早く死ぬ猫たちを毎日眺める。子猫のときから一緒だけれど、猫の顔も老けてきたなと思う。あと何年一緒にいてくれるのだろうとカウントダウンに入っている。
そんな猫たちを見ると、この子たちはお役目でわたしのところにやってきてくれたのだと思う。そして、死んでしまうときはそのお役目を終えるときであり、実はそれは悲しいことではない。ただ、わたしはものすごく寂しくなってしまうことを受け入れなければならず、それは今から想像するだけで辛い。
しかし、猫と同じようにわたしだって何かしらのお役目を背負ってこの世に生まれたのであろう。人は皆、何かしらのお役目を背負っている。
着付けをたくさん教えたこともお役目で、コンサートを開催してたくさんの人に音楽を聴いてもらったのもわたしのお役目が果たせたからだろう。
そして、小さな愛娘と日々過ごしているのもわたしがいなければならないものだからお役目と言える。
だから交通事故などでいきなり死ぬのではなく、願わくばお役目を果たしてから死にたいものである。
そして、自分のお役目であるという仕事をやりたいものである。
日銭を稼ぐためにやりたくもない仕事をしたり、自分が有効活用されていない仕事のために毎日勤務したり、そういうことはやりたくない。
だからわたしは自分ならこれができるということ、それはお役目となってわたしがいたことによって成し遂げられたことがやりたいと考える。
そうすれば自分を愛することができるし、そのお役目で誰かをハッピーにさせられる。
とはいえ、お役目を意識し過ぎて生きるとこれたたちまち負担になってしまい、手当がもらえない残業のようになる。
だから、お役目はなんとなく感じる程度にしておいて、まずは自分が楽しいと思うことをやるのがいい。
人間は死を意識しないと生き方が雑になる。そうならぬよう、死を意識しながら生きて、死ぬ瞬間は「いい人生だった」と納得できて、そして死んだあとは死後の世界でさらにステップアップする。
死んだら終わり、なんていう生き方は乱暴極まりなく、それだと利己的になってお役目は感じにくい。
そんなことを考えながら、わたしはもうちょっと頑張らないと死ぬときに納得できそうにない。まだまだ頑張りが足りない。今の勉強量だと多分受験で失敗するなということがわかるように、このままだとちょっと頑張りが不足していて納得する死に辿り着けないことが薄々わかる。
でも、まったく駄目ではなく、到達可能性はまだ十分にあって、これからもっと頑張れば間に合う。
死というのは美しいものであったほうがいい。