結月です。
明日は待望の人間ドック。であるからして、20時以降から絶食。とはいえ、急速減量中なわたしは20時以前の食事も微々たるものであるし、朝もほうれん草と絹豆腐であったので、いつでも人間ドックOKな状態。
会社(結美堂)の健康診断としてもできるし、そのほうが金銭的には安くつくのであるが、人間ドックと比べると検査項目が違いすぎる。病院に会社扱いの健康診断について電話で訊いてみると、
「検査項目以外のことは症状が出てから来てください」
なんて強烈な返事をもらってしまった。
恐ろしいことを言っていると思うけれど、確かに病院としては検査していないものに関しては事前にどうすることもできないわけだから、症状が出てから来いというのは理に適っている。
であるからして、検査項目が豊富でどの病気も網羅した人間ドックにしたわけで2年ぶりに受けてくるのである。
これは実に楽しみで、しかも1ヶ月以上前に予約してようやく。病院も毎日人間ドックは行っていないし、一人当たりに時間がものすごくかかるので順番待ちでそれくらいの時間がかかる。やっと体の状態も明確になるから待望の、というわけなのである。
しかしながら、太っている人が体重計に乗ることを恐れるように検査を恐れる人も多い。自分が病気であるか、病気になりそうという事実を直視したくないという気持ち。それは肥満が自分の体重を知ることを避けるのと同じ。
その気持ち、わからなくはないが、問題を先送りするのはビジネスでも仕事でも何にしても良くないのは共通で、病気、もしくは病気の可能性を先送りするのは最悪なことと言える。
なぜなら、病気は早期に治療したほうが苦しくないし、金も安上がりで済む。これが大病までいくと治療しても治らないこともあれば、治ったとしてもその間、ずっと入院で仕事もできず、さらに金がかかる。何ひとついいことはない。
だから、検査というのは自分が最短で病気を治せるチャンスでもあるし、余計な金をかけなくて済むためのイベントなのである。
2年ぶりの人間ドックだが、その2年間は必ずしも健康的ではない365日×2で、運動不足には陥っていたし、昔に比べれば酒量は減ったにしても飲むには飲んでいたし、食生活もエレガントではなかった。その2年間で体がどういう状態に陥ったかを明日はっきりとさせる。
そして、1月31日から始めた減量の途中経過としても血液検査の数値を知りたい。
いわばこれは受験の模擬試験のようなものである。自分の実力を直視する。そして健康を維持する、もしくは改善させる。
受験のように志望校というゴールはないが、予防できる病気は予防しておく。
しかし、長生きしたいわけでもない。銀座にいた頃は長生きする、というか、
「死ぬ気がしない」
なんてことを自慢げに言っていた。それは若さからの自信でもあるし、やりたいことはたくさんあって苦労はあったけれど生きがいはあったし、お酒もガブ飲みしてもどうってことなかったせいでもあろう。
ところがそれは間違いで、そんな無頼派な生き方が健康的であるはずはなく、しっかりとその間の時間は自覚症状なしで肉体を蝕んでいたわけだ。
幸い、病気にはならなかったが、ちょっとした発見でそのままそんな生活をしていたなら、きっとわたしは去年あたりか数年後に確実に死んでいたという有様で、
「死ぬ気がしない」
というのは精神的な強さとしてはいいけれど、物質である肉体はそんなわけはない。
従って、今ではそんなに長生きしたいとも思わず、それは現実を医学的に理解したせいでもあり、たとえ長生きしたとしても脳は劣化するし、時代にはついていけなくなるし、やりたいことをやれる肉体をどう頑張って維持してもそんなに先が長いわけもなく、生きていたとしても寝たきりなんてのは惨めで嫌。
先日も介護現場の老人の姿をテレビで見てしまって、ああはなりたくない。あんなのだったら長生きはしたくない。と思ったわけである。
とまあ、人間ドックも自分の現実を知る手段であり、生命維持のためであると同時に自分がやりたいことに挑戦できるのに残された時間を具体的に知ることでもある。
実はわたしはまだ若いし、普通に行けばまだまだ時間はあるが現実を把握しておくことが大事だと考えている。その把握があるからこそ、惰性で生きず、しっかりと目的意識を持って生きることができるのだから。
これはまさしく死生観であるが、日本人には哲学が歴史的に身についていないから死生観を持って生きることがレアである。
しかし、これは明確に持っていたほうがいいのは間違いなく、これからそういう啓蒙も仕事に混えていこうと思う。それが自分のお役目かもしれない。
さて、明日は人間ドックに加えて、脳ドックも受けてくる。人間が急死するのは心臓か脳だからである。
長生きは望んでいないが、急死は勘弁してほしい。わたしには可愛がっている猫が3匹もいるし、愛娘はわたしがいなくなると教育を失いドラ娘に転落するだろうし、音楽を公演することで感動を多くの人に伝えられなくなる。
自分以外に対して責任を持つと死ぬわけにはいかないと強く思う。
しかし、自分のことだけ考えて生きるといつ死んでもいいと思う。
この差は大きい。
自分以外に対して責任があるのにそれを自覚していない例もある。
ともかく、自分が死ぬわけにはいかないと思える生き方をしなければならない。いつ死んでもいいような芸術的無頼は時代遅れで、今はメジャーリーグのように肩を壊さぬよう投球制限をして、しっかりと仕事ができる状態でいることである。スポ根で闇雲に無茶をするのは自滅して終わる。
と、そんなことを考え、毎日エアロバイク。