結月でございます。
サラリーマンをしていないと曜日の感覚が曖昧になってくるのと、週末の休みが楽しみなものでなくなる。
会社に勤めると他人(会社)の時間で生きることになるので、休日が待ち遠しい。ところが自分時間で生きる仕事をすると休日を求めなくなって、むしろ鬱陶しいのである。
なぜなら、こちらが仕事しようとしても相手先が休みであったりするから、さっさと仕事をしたいと思っているのに歯痒い。それに自分で始めた仕事であるから、休む時間がもったいなくて、要は休みたくないわけである。
とは言え、わたしには5歳の愛娘がいて、保育園がカレンダー通りに休みになると、仕事をしたいと思ってもまるでできない。5歳児のお相手の一日である。それが三連休となると、絶望とまではいかないが、
「ああ…」
と、少しばかり思考停止な気分になって、
「三日間も足止めか…」
と、仕事の停滞が心苦しくなる。やることは山積みであるのに、今日は那須にある行きつけの千本松牧場へ行った。
こんなことをしている場合じゃないと思いつつ、保育園が休みなのだから仕方がない。しかも明日も休みである。
公演という期限がある仕事をやると、一日一日が貴重なものとなって切羽詰まってくる。何があっても公演日で終了なのである。
しかしながら、拡大解釈するとこうして生きていることも「死」という終了があるから同じであって、一日一日は貴重なものだと言える。そうであるなら、仕事はできないが5歳児とお出かけしたりするこの日々も貴重であり、それは今でしか味わえない一度きりな時間。
保育園が休みなことを恨みつつも、いつも愛車の助手席で眠ってしまっているその横顔を見ると、この経験も満足して寿命を迎えられるための材料なのだと思う。
わたしの場合は、これまでが無頼派でダラダラ過ごしてきたから、今頃になってしっかりと生きるようになった。おかげでディミヌエンドしていくのがノーマルな人生が多い中、わたしはクレッシェンドである。最後はフォルテッシモで終えたい。
そうでないと、過去のダラダラの辻褄を合わせられないからで、今更本気で生きている。
おそらくなんだかわからないほど忙しくしていて、そしたらいつの間にか死んでいたというのがいいのだろう。絵描きは絵を描いている最中に死ぬのがいいし、指揮者は指揮台の上で死ののがいいし、小説家は小説を書いているときに死ぬのがいい。
と、昨日は愛娘のコロナワクチン3回目。そのついでにわたしはインフルエンザワクチンを接種。
昨年はインフルワクチンが在庫切れが話題になるほどで接種が遅れた。だから、愛娘のコロナワクチンのついでに病院に尋ねてみると、本当は予約制なのだが、今日は空いているからいいですよ、と言われ、あっさりとインフルエンザワクチンを接種できたのである。
コロナが流行ったらインフルは流行らなくなったここ数年であれど、今年はどうなるかわからないし、公演を控えている身としてはインフルエンザが確率が低いとしても防御はしておきたい。
公演当日はわたしがいなければならないわけで、責任重大であるからワクチンである。
しかし、昨年もそうであったが、インフルエンザワクチンは500円であった。他のかかりつけの病院では4000円と張り紙されていて、まあこれくらいが妥当なはずだが、この値段の差がよくわからない。ちゃんと理由はあるのだろうが、調べるところまでは気力がなく、不思議なものとして放置してある。
さて、人類はワクチンという英智の最高峰というべきものを開発したが、ワクチンを接種するという行為は、自分が倒れてはならないから打つ、そして感染すると苦しいから打つ、このふたつがあるように思う。
これには大きな違いがあって、自分という存在が代替可能であるかの差である。
多くのサラリーマンの仕事は実は代替可能で、自分がいなければと思っているのは自分だけで、自分が休んでも会社はちゃんと回る。
しかし、代替不可能な立場があり、その人でないと代わりはない。
公演に関しては主催者であるわたしは代替不可能であるし、ステージに乗る演奏者たちもそうである。ギリギリtuttiであれば代替可能かもしれないが、基本的に代替不可能であり、その立場がトップであれば代わりはいない。
自分の代わりが本当にいないという自覚。それがあると、とにかく健康でいようと思うもので、ワクチン接種もできるだけ感染リスクを下げたいという思いによるものである。
感染したら高熱が出て苦しいから嫌という考え方は人間の根本であるけれど、それは代替可能な立場にいる証拠であると言えるかもしれない。
さらに目先の副反応が怖いから接種しないなんていうのはそれ以下であって、それは自分を本当に大事にしていないのだろうと思う。
そもそも多くの人が成人できているのは、子供の頃にワクチン接種をしているからで、ワクチンがない時代は感染症で子供の頃に死んでしまっていた。
と、公演に関しては代替不可能な人間であるわたしは自分と出演者の無事を願っていて、主催者とはそういうものである。
公演が終われば人間ドック。自分の肉体の整備点検である。
これは自動車とまったく同じで、点検して不具合があれば整備する。そうしておけば末長く乗れる。ところが整備を怠ると、故障箇所が大きくなって修理不能になったり、修理しても買ったほうが早いとなる。
人間も癌であれば早期発見すればほぼ完治するが、ステージⅢでの発見だと厳しい。突発的に死ぬのは心臓と脳が原因であるが、これも定期的に検査していればわかることであって、実は未然に防げる。
わたしは友人を二人、急死で失ってしまったが、これも定期検査をしていれば防げたはずだった。
そんな話をすると意外にも同じような経験をした人がいて、人間というのはそこそこの確率で急死によって早死していることを知る。
であるからして、「趣味・病院」を啓蒙したく、ヤバそうな知り合いがいたら啓蒙するのであるが、得てして受け入れてもらえず、
「大丈夫、大丈夫」
だとか、
「忙しいんっすよね〜」
だとか、
「検査するのが怖い…」
とか、そういう返事が多く、この先も失う友人はある程度いるのだろうと諦める。
うちの母親でさえ、人間ドックを薦めるもまだ受けておらず、自治体がやっている健康診断は受けているからなんて言っている始末である。
自治体の健康診断と人間ドックの内容とは調べる幅が違うのであって、健康診断では検査されない項目は見落としになる。
それを口酸っぱく言っても、人間ドックは金がかかるとかケチな発想でさっさと行動しない。
助成金が出て4万円ほどでできるのに、自分の健康管理をカネの損得で考えるとは愚かすぎで、人間は4万円ケチって死ぬものである。
結局のところ、自分が代替可能であるか不可能であるか、この自覚によるのかもしれない。
実のところ、すべての人間は代替不可能なのである。会社の仕事上は代替可能であっても、個の人間として考えれば、この世には同一の人間はおらず、そこに実存がある限りすべての人間は代替不能な唯一の人格である。
それなのに検査で未然に防げることをやらないというのは、自分がこの世で自分しかいないという事実を知らないのだろうか。
さて、実存とはその人が死んだときにわかるものである。
失ってやっとわかる儚いものでもある。
人に死によって日常は反転する。
実はこうして無事に生きていることが奇跡のようなものなのだ。