結月でございます。
いつの間にか2022年も4月。
テレビのニュースである有名企業の入社式の模様があり、新入社員へのインタビューがあった。その初々しい社員たちがあまりにもお利口さんでびっくりしてしまったわたし。
綺麗なリクルートスーツを着て、マスクをきっちりとして、質問に対しては礼儀正しく、先輩を敬う話をし、自分を低く、低く、ひたすら低く、決して出しゃばらない心がけで丁寧に答える。
ああ、そういうことか。こういう上場企業はこういう人たちが採用されるのか。
アタシには無理!絶対無理!
だって、インタビューなんてされたら、上方の人間の血として、何かおもろいこと、気の利いたことを言わないとつまらないと思ってしまい、余計なことを喋るに決まってるから。あんな気味が悪いほどにお利口さんになって、無難に徹して、自分を低く位置付けて、角が立たないようにするなんてアタシには無理。
それにああいうのって、就活のときに面接のマニュアルなんかを徹底的に読み込んで挑んでいるのだろう。わたしにはそこまでして自分のキャラを押し殺すことができない。だっていかにして自分のキャラを出すかを考えて生きているから。
と、一瞥してあまりにも自分とは人種が違うことに別世界を見てしまった気がして、しかし、ああいうのが世の中では優秀とされるのだろう。
でも、あんなに自分を出さないでいられるというのは、つまり「使いやすい」人材を集めているとも言えそう。やはり、キャラがおもしろいとか、何をしでかすかわかんないようなのはああいった老舗大企業ではなく、今ではIT系の、それも大企業でないエッジが立った新興企業に集まるのだろう。
人生を自分でコーディネートして楽しむタイプと手堅く食えることを目的にするタイプがある。
自分でコーディネートするタイプはもともと自分のキャラで生きていて、いろんなレベルはあれど、
「俺、バイクが好きッス」
みたいなので、どちらかというと学歴がそんなに高くないところに集まる。
最も社長を輩出している大学は実は日本大学らしく、確かにそんなに学力的にはそんなに大したことない。それでも学力ナンバーワンの東京大学よりも圧倒的に社長が多いのは東大は大きな力を持った組織に就職しがちで、自ら起業しようとする人が少ないせいかもしれない。
起業なんてノリの良さが必要で、手堅く食えることを狙うことなんかせず、自分がやりたいことをノリで始めるようなものなのである。つまり、起業は熟考しているとできなくて、ノリという瞬発力が求められる。
すなわち、
「俺、バイクが好きッス」
的なアホさがなければならないのである。
今日テレビで見た某有名大企業の新入社員はそんな雰囲気は皆無で、とにかく言われたことはミスなく忠実に取り組もうという生真面目な様子。
しかし、ああいう大企業は社内に少しだけ独創的なヤツがいればいいのかもしれない。そこに企画力があって、それを実現するのに膨大なお利口な人たちがいて、言うことをちゃんとしてくれるほうが会社が大きいとやりやすいのだろう。
得てして、企業は社歴が長くなり、規模が大きくなっていくとお役所化するもので、そうなると「俺、バイク好きッス」というのは採用されない。
自分が好きなバイクばかり乗っているのではなく、ボランティア活動だとか、自分のキャラを出すのではなく誰かのためになることを仕込まれて高校、大学と過ごしてきたような人々。そうでなきゃ、ああいったお利口な人相にはならない。
しかし、ああいうひと目見て従順さが湧き出ている、何かペットショップで売られているような幼気な子犬のような新入社員は日本独特な気がする。
極端な没我というか、自己主張をリアルにしないで発言は常に他者への気配りに満ちているのは日本社会らしいのではないか。
バリバリの個人主義で生きているフランス人にはあんなのは絶対にいないし、自己主張は必ずしっかりとするアメリカにもいなさそうだし、自分勝手が普通である中国にも見かけない。
あの入社式はちょっとした新興宗教の入信式のようにも見て、ちょっと気持ち悪かったが、そう感じるのは日本では少ないかもしれない。
日本はとにかく自己主張をすると「うるさい」と思われるし、いかに波風立たないようにするかが人間関係の重要事項になっている。
その風潮はきっとここ20年くらいで急激に進行したように思う。極端に言えば、「男はつらいよ」の寅さんの時代を見ると、日本人はもっといい加減ながらも自己主張をしていたのではないか。
お利口で優秀なんだけど、キャラが弱い。それが今の日本の新入社員世代の特徴かもしれない。
しかし、お利口さん的優秀さというのは、雑なものにとことん弱い。優秀さがか弱すぎて、雑な横暴さに耐えうることができない。
就活をしっかりと勝ち抜けた優秀さでは理解できない雑なものが世界にはたくさんある。論理性ゼロ、身勝手、嘘つき、金だけが大事、そんな極端な雑さはいくらでもあって、他者への配慮なんかまるで通じない。
雑さは自らの粗暴さゆえに倫理的解釈ができない。できない相手にいくら優秀さで説明しようとしても歯が立たない。だからメンタルが病んだりしてしまうのは優秀なほうなのだ。
論理性ゼロの雑さに対抗するには豪腕さが必要で、雑な相手には配慮しない力強さがなければならない。
それがいわば交渉力だとか、外交力と言われるのであり、性格的に図々しさがないと務まらない。
どうも日本は日本国内でそういう図々しさをなくそうとしてきた流れがあるような気がして、それは教育現場だけでなく、社会がそうしてきたのではないか。だから、全体的に日本はお行儀が良くなっている。
それはいいことでもあるけれど、反面、お行儀の良さからはおもしろいもの、激しいものは生まれないもので、
「俺、バイク好きッス」
と言って、周囲の迷惑を考える以前に自分が愛するバイクの爆音を響かせる気持ちよさを追求するタイプのほうがおもしろいことを考える。
他者に配慮して、無難にやり繰りする術を若いうちから仕込まれると創造的な発想ができなくなり、だから周囲と軋轢が生まれるとメンタルを壊しやすい。
クリエイティヴに生きていると、
「自分が嫌われてるにも気づかない」
という力強い立場になり、たとえ嫌われたと知っても自分のクリエイトには関係のない意見だからと気にならない。
わたしはそのように生きるほうが楽しそうでいいと思うのだが、しかし人それぞれで、仕事は言われたことをこなすことが好きという人もいるわけで、だからこそ、ああやって新入社員が集まるのだろう。
ただ、その入社式を見て思うのは、
「みんな、メンタル弱そう…」
ということで、あんなに若いのにペットショップで売られる犬のような悲哀があって、媚びるつもりはないのに媚びているように見えてしまうその姿に、
「生きるってどういうことなんだろうね…」
と、他人ながらに思ってしまった。
と、目下、やりたいことに夢中でクリエイティブに忙しいわたしはペットショップで売られている犬のようではなく、気に入らないことがあれば噛みつくことも辞さず、人から指図されるのが嫌いで、好きでないものには興味を示さない、そんな野良猫路線で生きています。