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言語に罪はないけどね。

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結月でございます。

自分にやることがたくさんあるから、正直なところ、戦争のことには興味を持つ時間がない。でも、テレビではコロナのときと同様、専門家と称する人がたくさん出てきて、司会者と「議論」していたりする。

これが毎日同じような話ばかりだから再放送かと思っちゃう事態はコロナとこれまた同様だけれど、戦争の影響が遠く離れた日本でも経済的にはあるとは言えど、プーチンがどう考えているかなど本人に訊いてみなければわからないし、結局のところは当事者からあまりにもかけ離れた専門家と称する人が推測でそれらしいことを言って「議論」としている。そんな議論に意味があるとも思えない。

こういうのは床屋談義の本格バージョンみたいなもので、わたしはこの戦争に関してはよくわからないからという点で興味が持てない。興味を持ったところで、西側諸国に属している日本ではそっちの情報しか入ってきていないし、希望的観測も多々あるので、そこでの判断は誤謬である可能性も高くなる。そもそも世界というものはすべてを認識できないのだという哲学的な認識論なわたしなので眺めるしかない。

と、キエフが「キーウ」に表記がいきなり変わって、ちょっと気持ちが悪いなと思う。

侵攻している側の言語に由来する呼び名はやめようということらしいが、ロシア語そのものには何の罪はない。この世のあらゆる言語にはそれぞれの美しさがあるし、言語に優劣はない。

それをいきなり「キエフ」という言葉をこうも簡単に排除してしまうのは、言葉狩りのようにも思え、そういうところを問題にしなくちゃいけないものかなと思う。

というのは、キエフという言葉は歴史の教科書にも「キエフ公国」なんてあって、日本では馴染まれた呼び名であった。それがロシア語由来ということを知っている日本人なんて最近まで皆無だったに違いなく、わたしも知らなかった。

政治的な意見に関係なく馴染んでいた言葉がいきなり変わるというのは、馴染んでいた友達がいきなり目の整形手術をしたような違和感がある。

さらに外務省はチェルノブイリをウクライナ語の発音の「チェルノービリ」呼称変更するなんて言い出して、さすがに「キエフ」よりも原発事故で有名すぎる地名たるチェルノブイリがチェルノービリになると目だけの整形だけでなく口までやったという感じで、誰だかわからなくなってくる。

チェルノブイリは事故の結果、深く知られるようになったのに「チェルノービリ」とされると覚えにくいし、話にくい。

とにかく問題はそこじゃないと思うから、何ともこうした傾向に違和感があって、馴染んでいた言葉を政治的理由で変えてしまうのは釈然としない。

女性が結婚して姓が変わると、新しい名字で呼ぶのに気恥ずかしさがあるけれど、そこには政治的なことはないし、法的なものであって姓が変わると日本では馴染んでいるから、まあ仕方がないと思える。

でも、政治的なことが絡んだ変更というのはやっぱり気味が悪く、ウクライナ語が悪いという意味でなく、政治的ないやらしさみたいなものが「キーウ」や「チェルノービリ」という言葉にまとわりついてしまってすっきりしない。

ロシアにはロシア人がたくさんいて、彼らが培ってきたロシア語という言語があり、ロシア語由来であったというだけで言葉狩りをしていいのだろうか? わたしの中でずっと違和感なく馴染んでいた「キエフ」という言葉が話しにくくなる。もしキーウのことを「キエフ」と言えば、わたしはプーチン派という扱いにされてしまうのだろうか?

馴染んでいた言葉を発するとそれが悪いかのように思われるのが政治的変更のいやらしいところなのである。わたしは政治的にどっちがどうとかもないので、自分の中で馴染んでいた言葉を手放したくないと思う。

そもそも外国語というのは表記をカタカナにしているところで正しくないのである。なぜならカタカナは日本語の発音なのであり、そのカタカナでネイティヴに話ても通じない。

だから、ウクライナ語で「キーウ」というのはカタカナの「キーウ」でちゃんと通じるのだろうか?

ちなみにわたしの愛するパリはカタカナで「パリ」と発音してもフランス人には通じない。PARISの「R」がフランス語ならではの発音で、日本語の「リ」ではないから。これは音だからここで文字に書けない。

わたしとしては愛するパリをアメリカ人が「パリス」と英語で話すと、

「ちげーよ」

と、思う。

とは言え、そこには政治的な変更でなく、英語だとSを発音するから仕方がない。

あとは北京は「ペキン」と呼ばれる。中国に馴染みがあるわたしは中国に行くようになってから北京をペキンと呼ぶのに違和感が出始め、「ペキンオリンピック」とテレビで普通に言われることに居心地が悪かった。

なぜなら、ペキンオリンピックでは現地の看板には、

「Beijing2022」

と書かれてあって、「Peking2022」とは書かれていない。

中国語で北京はペキンではなく、「ベイジン」。

でも、中国語には四声があるから日本語のカタカナ読みでベイジンと言っても中国では通じない。この四声もカタカナ表記では表現できない。

というわけで、そもそもカタカナ表記が日本語だから、外国語をカタカナでは再現できないのである。

だから「キエフ」をキーウにしたところで、それってカタカナだからどうなの?と思うわけで、言葉そのものはロシア語の発音でキエフがあり、ウクライナ語の発音でキーウがある。ただその事実があるだけで、そこに政治的な偏りを入れるのはどちらにしても言葉を汚された気がしてしまう。ロシアの為政者に問題があるからといって、ロシア語を否定するのがどうかと思う。と同時に、わたしはウクライナの為政者がすばらしいとも確信していなくて、ウクライナに行ったこともないし、日本に流れる情報しか見ていないから確信はできず、眉唾である。

しかし、何にせよ、言葉を否定されるのは苦しいものである。

昔、韓国人のディレクターと共同で韓国の映画祭に出す脚本を書いていたとき、わたしはソウルに行ったのだけれど、その時、招かれた家があってものすごいご馳走を用意してくれていた。

そこにいた老人は日本語が達者で、大日本帝国統治時代、韓国語を話すと日本の監督者にぶん殴られたという。

母国語が禁止というのは辛いことで、母国語とは最も自分に馴染みがある言語であるからこれを否定されると反感も湧く。

そこまで歴史的な大きなことでなくとも、方言ではよくあることかもしれない。

実は上方の人間であるわたしは大学で熊本に行き、そのころは関西弁を話していた。すると性格の悪い先輩がいて、どうも関西弁が好きでないらしい。そして、わたしに熊本弁を強要するのである。

わたしは熊本弁は話す気になれない、というか熊本の人間でないからそもそも熊本弁の根っこがない。だから、結局熊本弁を話すことはなく過ごしたのであるが、自分に馴染んだ方言を否定されると気分が悪い。

東京のことは好きだったから、東京に来るとずっと馴染んでいた関西弁はわずか1ヶ月ほどでわたしからなくなり、東京弁になって今もそうである。今、関西弁を話せと言われたらできるだろうけど、長年使っていないから気恥ずかしい。自分でない気がするのである。

これはキエフがキーウに変わったようなものかもしれぬが、それは自分が好きで変えたのであって、強要されたわけでない。外務省のような組織が呼称変更を強いたようなものでない。

言語というのはアイデンティティであり、馴染みであり、人格でもある。だから、言語を否定すること、言語の変更を強いることはその人のアイデンティティの否定であり、馴染みの否定であり、人格の否定につながるのである。

それゆえに自分としては政治的意見に関係なく「キエフ」という言葉に馴染んでいたのに、社会の空気が「キエフ」を使いにくい雰囲気に強要されていくのは自分の中の言葉を否定されるようで嫌なのだ。

戦争が起こる本質はそこにあるのではなく、戦争のどちらかの側につくこと、その行為自体が実は戦闘行為をしていなくても戦争の参加なのである。

だから、あまりにも安直に言語の表記を変えてしまう政治的行為はやらないほうがいい。その変更があたかも善意であるかのような傾向はよくない。

とは言え、そもそもわたしは戦争のことは一切、誰とも話題にしないから「キエフ」も「キーウ」も口にはしないけれど。

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