結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

小一の壁は無理ゲーなのだから

【スポンサーリンク】

結月です。

「小一の壁」なる問題がこの時期に言われるようで、それは確かによくわかる。

保育園で預けていた時間よりも小学生は遅く学校に行くし、さらに早く学校から帰ってくる。そうすると親の勤務時間に合わない、さてどうする?という問題。

学童保育などもあるが、人数制限もあって全員が入れるわけでないし、入れたとしても18時までだとすると会社を17時には終えなければならない。通勤時間によってはそれでも間に合わないことも考えられる。

勤め人をやっていると切実な問題で、そのために会社を辞めなければならなかったりもする。逆に最初からパートくらいの仕事しかしていない人のほうが融通が利くかもしれない。

しかし、そこそこの会社で働いている人は辞めてしまうことでキャリアが止まるし、辞めてどうするか、どこかの安いパートに出るというのもプライドが許せぬところもあるし、優秀な人が会社を辞めて学歴も要らないような仕事に就くのは日本全体としてもよろしくない。

しかしながら、これを解決するような設備や時間延長も積極的に行われておらず、だからこそ毎年「小一の壁」が言われるわけで、社会が真面目に解決しようとしてないのであろう。そして、会社を辞めたりさせることで誤魔化されていて、泣き寝入り状態なのである。

思うに正社員として17時に仕事がきっちりと終わる会社はどれほどあるのだろうか? つまり17時に社員を帰す会社は全体の何パーセントほどなのだろう?

コロナのおかげでリモートワークは浸透はしたけれど、全部が全部リモートというわけにいかないし、本当のところ、リモートで仕事をちゃんとできる人間はあまりいない。それができるのはよほど優秀でないと無理な話で、要するにサボる口実化している。と同時にリモートになったせいで、出社するより忙しくなったという人もいる。

現状においての結論としては、会社を辞めたくなければ子供は作るなということであって、子供がいるなら会社を辞めることは甘受する覚悟も求められる。

なるほど、これでは日本は豊かにはならない。学童保育の職員だって早く帰りたいから18時までしか子供は預からない。それに遅くまで預かるとなると職員への残業代も発生するからやはりできない。

自分の小学校時代を思い返すとわたしは鍵っ子であった。首から家の鍵をぶら下げて学校へ行っていた。そうでない時は牛乳受けに鍵が置いてあったが、母親がよく鍵を置くのを忘れるものだから、わたしは数時間、外で待ちぼうけを食らっていて、実に孤独だったのである。

だから母親が帰ってくる姿が見えると嬉しかったものだが、どうして当時、親に対して反感を抱かなかったのかは不思議である。

しかし、そんな放置が許された時代だったから社会問題にもならなかった。

結局のところ、どこかが犠牲を負わなければならない。

放置OKな時代ではわたしみたいな小学生が目の前にある家に入ることができない犠牲を負った。今は子供のために仕事を辞めなければならない親が犠牲になる。

本当はもっと上手くやるやり方があるに違いないが、日本人は仕組み作りが苦手なのである。だからどこかに犠牲を強いて見て見ぬふりなのである。

そして自分から積極的にやってやろうという人が少ない。できれば自分は関わらず、誰かにやっておいてもらいたい。そういう国民性があるから、小一の壁はなくならない。

検討を検討することしか検討しない今の首相を見ていると、ああこれが日本人の姿だなと思う。日本人は検討をすることで誠意を示し、でも決断はしない。そんなところがある。

さて、4月から小学生になる愛娘がいるわたしは「小一の壁」には直面していない。それは勤め人でないからで、ワンオペ状態で今までやってこれたのも自分の都合で仕事ができるからである。

とはいえ、小学校まで毎日クルマで送り迎えするとわたしは一日あたり4時間近くクルマを運転しなければならない。しかし、それが大変だともあまり思っていない。

クルマの運転は好きだし、クルマの中では行きは英語のCDを、帰りはフランス語のCDをかけて勉強しようと6歳児と決めた。クルマにいる時間を無駄にしたくないし、毎日英語、フランス語の学習CDを聞いていればいずれ習得できるだろう。そう思うと、勉強時間が増えたようなものだ。

わたしの仕事に費やす時間は今までより少なくならざる得ないが、それもやり方を変えればどうにだってなる。今までやり方が悪くて無駄にしていた時間があったのだから、それを整理して上手にやれば問題はない。

しかし、こういう生き方をしている人は稀で、多くは勤め人なのであるから無理ゲーなのである。

あとは捉え方だろうか。

大変なことを大変だと思わない鈍感さ。小学校への送迎のために一日4時間、距離にして100Kmもクルマを運転しなければならないことによく「大変ですね」と言われるが、わたしはそう感じていない。そのあたりが自分はアホというか、アホだから感じていない。

というか、諦めが早い。しょーがないものはしょーがないと諦めている。執着しない。駄目なものは駄目だし、やらなきゃならんことはやらなきゃしょーがない。そういう割り切り。

これもきっとわたしが「他人に期待していない」からだろう。つまりそれは社会に期待していない。

誰かにこうしてほしいとも思わないし、社会がこうしてくれたらいいのにとも思わない。

それを思うと不平不満が生まれるからで、愚痴っぽくなる。

他人なんか自分の思う通りに動いてくれるわけはなく、その証拠にわたしだって誰かの望み通りに動いちゃいない。つまり社会だってそうなのである。

だから、そこは期待せずに諦める。諦めてクルマを4時間運転して、でも時間がもったいないから愛娘と二人で語学に励む。すると有意義になるじゃないか。

小一の壁ゆえに会社を辞めなければならないのなら、辞めて自由な時間を得て、その時間で小さな事業を立ち上げたっていいじゃないか。

やり方はいろいろあるはずなのに他人や社会に期待してその通りにならなくて僻んでいてはそういう発想ができない。

日本人の体質が見て見ぬふりなんだから、期待してもしょーがないのである。

というわけで、これからクルマの中で語学学習をして、一緒に英検を受けようと愛娘と話をしている。

別に英検なんて取得しなくてもどうってことはないが、暇つぶしの成果が出たことを確認するためにはいい。ちょっとした目標にもなる。

目標とは自分で作るもので、誰かが与えてくれるものじゃない。

他人に期待するのは自分で目標が作れないからなんだと思うよ。

【スポンサーリンク】