結月でございます。
音楽って何なんだろうね。なんて、厨二病みたいな問いかけ。そんなこと考えたって仕方ないし、どうでもいいようにも思える。
でも、たまにそれを考えてみたりする。
歴史的な作曲家だって、その曲を書こうというとき、何か具体的なメッセージ性を決めて作曲するなんてことはしていないように思う。
「できてしまった…」
みたなニュアンスで、もちろん発注を受けて作曲したものもあれど、人間はこうあるべきだ!だとかそんな押し付けがましいメッセージは具体的にないものが名曲として残っている。
じゃあ、どうして音楽を聴くのか? 聴く人がいるからクラシック音楽だって作曲家が死んで数百年経っても演奏され、観客がいる。
他人のことはよくわからないから、自分のことで考えてみる。どうして音楽を聴くのか?
「聴きたいから聴いてる。それだけ」
と、答える。
好きだから聴いてる。と同時に、聴きながら魂が揺さぶられて興奮したり、時には涙ぐんだりしている。
もし音楽にメッセージがあれば、それはさぞかしつまらないものだろう。チャイコフスキーに「1812年」という曲があるけど、内容はなくて音楽としてはつまらない。
文学だってメッセージ性が強いものに傑作はない。
特に政治的なメッセージとなると文学はつまらなくなる。
ジョージ・オーウェルの『動物農場』がおもしろいのは、政治的な内容を寓話にしたからで、でもやっぱりあの作品は何度も読もうとは思わない。それは当時のソ連の政治的背景なんて今とはあまり関係ないから。
というわけで、クラシック音楽で名曲として残っているものは得てしてメッセージ性はない。
ベートーヴェンの第九は名曲だけれど、捉えようによっては第四楽章で歓喜の歌が出てくるところで音楽がつまらなくなる。
歓喜をセリフで言っちゃあ、おしまいよ。というわけである。
メッセージと込めると、音楽がわかりやすくなってしまう。ああ、そういうことね、と。
その音楽がどういうものか何度聴いてもわからなくて、一つの解釈が生まれたかと思うと、今度はまったく違った解釈も生まれ、それが時代によって更新され続ける。その結果、普遍的な価値を持つようになるのが名曲。
すなわち、謎なのである。
その曲がどんな曲で、どんな意味を持つのかが謎。
人によって、演奏者によって、評論家によって、その解釈が好き勝手に言われるけれど、答えはわからない。わかったと思ってもそれは単なる自己解釈にすぎない。
では演奏を聴かせる場合、メッセージがあったほうがいいのか?
それはないほうがいいに違いない。あればコンサートが押し付けがましくなる。
そんな意味でもわたしはチャリティーというものが大嫌いで、解釈自由な音楽が貧困への寄付になったりしてしまうから。
しかし同時にただ演奏していればいいのか?とも思う。観客任せのままでいいのかという問い。
わたしが今、考えている企画は少なからず社会へのメッセージというか、今のこの社会だからこそ、やらなければならないと思うもので、目は社会へ向いている。
それはコロナ禍という抑圧的な社会であるからで、その中ではたくさんの理不尽があったり、不条理があったり、怒りがあったり、諦めがある。
そんな社会に向けたい音楽がある。
きっとそういうのは非常事態だからこそ成り立つのだろう。平和で牧歌的な時代なら、社会へ向けて音楽なんてやろうと思わない。もっと悠々と、その作曲家がどういう音楽を作りたくてその曲を書いたかなどを研究して、純粋に音楽を演奏する。
だから、コロナ禍だからこそやる音楽がある。
皮肉にも感染を考えて、そのコンサート自体が禁止されることがあるとはいえ、コロナ禍に落とし込みたい音楽がある。
ただし、それはわたし個人の考えで、世間はそんなことは求めていないかもしれない。
求めていないけれど、見せると、聴かせると、共感が発生することがある。
音楽は求めに応じるのではなく、提示するものなのだろう。
それが受け入れられるか、拒絶されるか、無視されるかはわからない。ただ、それは提示してみないと結果は出ない。
その音楽で涙するかもしれないし、退屈で眠ってしまうかもしれないし、途中退席してしまうかもしれない。
しかし、どんな結果であれ、提示しないことには始まらない。
でも、それはメッセージとは異なる。
メッセージとなるとやはり押し付けがましい。
もっと未分化で、曖昧で、何だかよくわからなくて、でも魂に触れるもの。
名曲は魂に触れる面積が大きいのだろう。
とはいえ、触れると言っても数パーセントほどではないか。
ところがコロナ禍など非常事態となると、社会が感じるものが具体的になって、それが最大公約数となる。
だから、そこに落とし込むべきものは多くの観客の魂の広い面積に響くのではと思う。
音楽が社会に関わるかどうか、関わらないべきかはわからない。
例えば、五嶋みどりは積極的に音楽でもって社会に関わっている。
一方で、グレン・グールドみたいにスタジオに引きこもって演奏するマイワールドもある。
しかし、そのいずれかにせよ、聴けば魂に触れられる。
ともかく、わたしは音楽が何かはよくわからない。はっきりと音楽とはこうだと言えない。
音楽は変容する。
同じ曲なのに社会の状況によって受け取られ方も変わるし、どうプロデュースするかも違ってくる。
わたしはずっと自分が好きなもの、愛しているもの、自分の美意識に当てはまるものを演奏会で扱って、その美を純音楽にして観客と共有していた。
ところが今は社会に対して言いたいことではなく、「感じ」てほしいことを融け込ませている。
それはメッセージではない。メッセージ以前の未分化なもの。形はないけれど、感性として、エネルギーとしてあるもの。
それは紛れもなく「今」だからやらないといけないもの。
社会を変えたいとかでなく、社会に感じさせたい漠然としたもの。
そんな方向性があったほうがいい音楽もある。
そして、コロナ禍だからこそ、名演奏になる可能性。
なぜなら、社会で共通して感じるものが最大公約数的に大きくなり、同じもので悩み、苦しんでいるから。
すると音楽は聴く者の魂に触れる。触れるだけでなく、包み込む。
しかし、それで社会がどうなるってことはない。何も変わらない。きっと変わらない。そして変わってほしいとも望んじゃない。社会は多面的であるべきだから。
ただいつもよりたくさん、広く、深く魂に触れられるのではないかというだけ。
いいんじゃないか、音楽はそれで。
言葉にしないほうがいい感動。感動の中身を説明しないほうがよく、説明はできないほうがよく、理解しようとしないものがいい音楽なのだから。
確かなことは魂のどこかに触れたということ。
これが大事。