結月でございます。
チケットの申し込みの専用電話が鳴って、チケットの申し込みを受ける。とにかくこの電話が鳴ってチケットを買ってくれる人がいることが今は何よりもうれしい。
ようやく緊急事態宣言も解除されて、これからいきなり全開とはならないにせよ、社会の空気は変わってくるであろうし、同時にまだ油断ならない空気もあって恐る恐るという感じ。
そんな中、11月の公演に来てくれるという申し込みがあると、公演を求めてくれている人がいると実感できて、わたしは救われる気持ちになる。
そうして思ったのは、音楽というのはミートソーススパゲティにかける粉チーズみたいなものなんだということ。
そう。音楽は粉チーズなのである。
日常生活という本体をスパゲティだとすれば、音楽は粉チーズ。
わたしは粉チーズが好きで、スパゲティを食べるときは山盛りかける。赤いミートソースがオレンジ色になるまでかける。
それだけではない。おそばを食べるときは天かすは山盛りである。
すき家で牛丼を食べるときは、満杯だった紅生姜の容器が残り三分の一ほどになるくらい紅生姜をかける。牛丼を食べているというより、紅生姜を食べているくらいである。
わたしは粉チーズがないミートソーススパゲティなんて食べられない。天かすなしのおそばなんて無理。紅生姜をかけずにすき家の牛丼なんて想定できない。
ともかく、粉チーズも天かすも紅生姜もマストなのである。
わたしのそれらの分量は非常識すぎるとは言っても、やはり粉チーズなどはあったほうがいい。
つまり、音楽は日常生活のメインにはなり得ないけれど、それを彩り、アクセントを利かせ、メインにあるものをちょっと奥行きを出させるようなそんなものじゃないかと思うのである。
粉チーズなしでミートソーススパゲティは食べられるは食べられる。しかし、実につまらない味である。
牛丼に紅生姜がないと、舌が引き締まらないから味がだれてくる。
ただ生活するだけの日常なんてものは、粉チーズのないミートソーススパゲティであり、だからこそ人は粉チーズを日常というメインに加えたいと思う。
それが音楽。
人によって日常の粉チーズはダンスかもしれないし、演劇かもしれないし、ミュージカルかもしれないし。
文化は総じて粉チーズなのである。
粉チーズがメインになることはあり得ない。
それをなし得るのは音楽家であり、音楽で飯を食うことが日常になっている人だけの話だ。
だから、コロナ禍で「音楽は不要不急じゃない!」という音楽で飯を食う人の主張は社会には説得力がなかった。
音楽を日常にふりかける粉チーズとして生きている人にとっては音楽は不要不急だった。
でも、音楽が不要不急であっても、それがない日常は実につまらなくて、薄っぺらで、ときめきがなくて、ただのミートソーススパゲティだった。
いや、それどころか緊急事態宣言で様々なことに制限がかけられた中では具なしのミートソース、いやいやソースなしで、湯がいたスパゲティだけ食べるような日々だった。
ソースのないスパゲティでも、とりあえずそれを食べればお腹はやりくりできる。
でもうまくない。我慢して口に運ぶ。ミートソースをかけたい。さらにそこにたっぷりと粉チーズをかけたい。しかし、それらは不要不急であるから禁じられている。
ソースがあり、粉チーズがあれば、どんなに素敵なスパゲティになるだろう? それを想いつつ、我慢を強いて湯がいただけのスパゲティを食べる。
そんな日々が続いていた。
やっぱり粉チーズはかけたい。かけたほうがうまい。メインではなくトッピングであってもそれがないとおいしくない。
音楽はそんなものだ。
コンサートホールに足を運んで、音楽を体感したい。そして感動して気持ちよくなる。
音楽がなくても死にやしない。でもないとつまらないのだ。
コンサートをプロデュースするのはそれだけだとつまらない日常生活にふりかける粉チーズを製造販売することなのである。しかも極上の粉チーズを。
この粉チーズをふりかけると、自分の生活が色めき立って、生き生きとしてくる。
その粉チーズを製造するのは一流の職人たち。つまり一流の演奏家。
彼らは粉チーズが日常になるほどそれに打ち込んできたプロフェッショナル。粉チーズならまかせろ!といういわば粉チーズフェチの変態である。
そして、彼らが生み出す粉チーズは最高品質。
そんな粉チーズを日常生活に思い切りふりかけてほしい。
わたしたち、音楽に携わる人間の仕事は不要不急に部類分けされる。だから、儚い。儚すぎて、この仕事は平和でないとやらせてもらえないし、経済的にゆとりがない社会では成立しないし、感染症が流行ると太刀打ちできない。
こんなに儚くて、足元が危うくて、日常生活のメインになり得ないのに頑張ってしまうわたしたちはちょっとお花畑で、多分アホで、間違いなく世間知らずで、金よりも美しさを大事にしてしまうナルシストだ。
でも、美しさのために社会的弱者であることを選んでいるわたしたち音楽屋がいることでたくさんではないけれどクラシック音楽が好きな人たちの日常生活に素敵な粉チーズをふりかけられる。
このコロナ禍で粉チーズがなくても生きてはいけるけど、どうにもこうにもつまらないということがわかったのではないか。
色っぽさとは得てして不要不急なもので、ぬり絵の色彩みたいなものだ。
色が塗られていないぬり絵。それは線で絵は描かれてはいても絵としてはつまらない。
そこに着色することが文化であり、音楽である。
公演を開催する。それはモノトーンな社会への反抗でもある。少なくともわたしはそう思ってやっている。
粉チーズのないスパゲティが許せない。色彩を塗ることを制限された世の中に我慢ならない。そう思うからきっとわたしは音楽をやっている。
公演は11月22日。そこまでどれくらいコロナ禍でモノトーンになった社会が色彩を帯びることが許されるであろうか。
しかし、花は咲くのを待つものでない。手入れに手入れを重ねて、美しく咲かせようとするものなのである。