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タコツボ化から遠ざかる

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結月です。

自分が何かの専門家だなと思われたら、

「そうでもないよ」

と、答えられるように、というかそう思われるのがちょっぴり嫌だから、

「そうでもないよ」

と言えるようにしてきた。

マルチプルな性格のせいか、何か一つだけのことをやるのがあまり向いていなくて、興味を持てばいろんなことをやる。そうしていろんなことをやってきたのだけれど、コアの部分はひとつしかなく、要するにそこから派生しているだけだとも気づく。

赤という色彩は一種類ではなく、トマトも赤だし、苺も赤だし、ルージュを引いた唇も赤だし、てんとう虫の背中も赤である。赤というコアが派生している。

であるからして、いろんなことをやっているといっても、自分の中から派生、枝分かれしているのだからそうデタラメでもなさそうなのである。

ただ、一つだけのことしかできないと人間はタコツボ化するので、自分がタコツボ化していると感じたときに自分が今までやったことがないことを挑戦したくなる。

思えば、取引先と話すとみんなタコツボなのである。

京友禅の着物を染める人たちはそれしかできない。弦楽器の仕入れをするのに業者に電話するとそれしかできない。器楽奏者と話すと音楽しかできない。

もちろんそれぞれの分野は奥が深いから、それを極めるには一生をかけても足りないものもあろうが、とは言え、総じてそれは仕事のルーティンであったり、業務としてこなす程度の専門性であって、同じことをやっているだけだとも言える。

おそらく一生かけても足りないほどの探求は芸術だけであり、職人は一見そうは見えてもルーティンが多い。芸術家はルーティンを拒む。

例えば、音楽をやるから音楽だけをやっていればいいかというと「いい」とも言えるし「よくない」とも言える。

それはどのレベルで音楽をやるかによるわけで、BGMで適当な曲を演奏するくらいならそれを弾ける程度でいいし、しかしそれ以上の芸術性を求めるのであればそれは音楽だけでなく、人間の行いにつながるから音楽以外のこともやっておかないと人間の行いには到達できない。

世界文学全集なんかは一通り読んでいれば、表現は人間の奥底を捉えるようになるに違いない。

音楽は苦悩や喜びといった人間の魂を描いているが、例えばドストエフスキーを読むと人間のおぞましいほどの汚さやそこからくるどん底の苦悩がわかり、演奏に深みをもたらすだろう。

それは絵描きだって写真家だって同じで、ちっぽけな自分の体験だけだと自分というタコツボ化するから表現が浅い。

要するにタコツボ化を避けるには自分が知るジャンルの外に出なければならない。

しかし自分のコアはひとつであって、ブレることはない。専門外を知ること、それは自分以外の人間を知るという意味であり、言ってみれば「取材」である。だから自分が自分でなくなる意味ではない。

そう言えば先日、ジェネオケテーマソングのPV撮影をして、そこはクラシック畑とは違う人たちばかりで楽しかった。

ヒップホップなダンスを間近で見たり、ダンサーという人たちを眺めていると自分が知らない人間の姿を感じた。もちろん、向こうからすればわたしという人間は異質なものだろう。

ダンスをする人はノリがいいし、明るいし、自分を肉体で見せることに長けていて華がある。それにダンスのリズムが身体中に染み込んでいてそれが波動となっている。その波動はモーツァルトにもベートーヴェンにもマーラーにもないリズムで、

「おもしろいなぁ」

と、見ていて楽しかった。

自分が生きている世界は小さくて、外側にはいろんな人がいるのである。

そういう意味でとても撮影は楽しく、そんなPVをクラシック音楽をやるオーケストラのテーマソングに使うのは世界が広がっていい。

なぜなら、わたしはジェネオケでは今後、すでにクラシックファンである人以外にクラシックを知らないところに落とし込んでいきたいからで、音楽を聴いてくれる人たちが代謝しないと音楽がタコツボ化する。

クラシック音楽界の閉鎖性という息苦しさ、いつも同じようなことばかりやって変化の乏しい代謝のなさにわたしは結構うんざりしている。

もっと音楽は大きなもので、もっと世界が広いはずなのにニッチ化していることがよろしくなくて、内ばかり向いている。

だから、演奏者と話してもマネージメントの会社と話してもみんなタコツボ化していて、世界が狭いのである。

人類もここまで来たんだから、いい加減、クラシック音楽界も変わらなくちゃいけないんじゃないか。

とまあ、タコツボ的が苦手なわたしは専門外のところに飛び込んで、クラシック音楽がGeneralになればいいと思っている。

そして最終的には広大な人間世界をより多く捉えること。すべては無理だけれど、タコツボの外に出た世界を音楽で捉えたい。

ちなみに世界すべてを捉えられるのは哲学上、「神」だけである。

そう言えば、大学というのはタコツボだった。文学部哲学科なのだから哲学のタコツボで、大学の研究室は本物のタコツボのように暗くて地味で、小さな個室が並んでいた。

そこでの研究はさらにタコツボで、ドイツ観念論の学者はそれしかやらないし、ギリシア哲学はそれだけだし、哲学であるのにそこには「人間」が扱われていなかった。

あまりに息苦しくて、わたしはフランス文学科に逃げたり、社会学科の講義に出向いたりしていた。

つまり、タコツボが好きな人間が学者になるのであり、それが専門性なのである。それしかできない人々。

思えば、コロナについての感染症対策の話も専門家のタコツボであって、その先にある「人間的」なものは語られなかった。だからマスクを外せなくなって、子供たちはマスクを外すことを恥ずかしがり、自分の顔を見せることができなくなった。専門家はそこまで考えていなかった。それは人間的なものを無視してタコツボ的なものを強制したからだろう。

それと同じ理屈で、クラシック音楽の専門家は「人間」を捉えられているのだろうか? 音楽だけやってやしないか?

そんな疑念があって、わたしはクラシック音楽をそのタコツボの外に持っていきたいのである。

もっと代謝することで、きっと音楽そのものが進化する。未発見がたくさん湧き出てくる。

そうしないと音楽は演奏者が違うだけで、実はやってることはルーティンになるのであり、いやそうなっているのであろうが、もっと外側の人間を知ったほうがいい。

いつだったかある有名指揮者のTwitterに巡り合って見てみると、休日はスコアを読み込んでいるとあった。そこに反応したのが井上道義で、

「休日なのにバイク乗ったり、女の子と遊んだり、うまいもん食ったり、そういうことしないの?」

みたいなリプをしていて、さすが井上道義っておもしろいな、だから音楽もおもしろいんだろうなと思った。

音楽やるのに音楽だけやるなよ、というメッセージ。

バイクをぶっ飛ばす快感を知っている指揮者のプレストは豪快だろうし、女の子に熱愛するエスプレッシーヴォは情熱的だろうなと思う。

さて、わたしはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むことをお勧めしているのだけれど、あれを読むと人間のどん底が知れて、きっと今の自分がマシだと思えるから。そして、人間のおぞましい姿は知っておいたほうがいいから。

でも、わたしの交遊範囲の狭さのせいか、ドストエフスキーを読んだという人に出会うことがない。

かといって、会ってカラマーゾフの兄弟の話をしたいかというとそうでもなく、なぜならそれをするとドストエフスキーのタコツボ話になるから。そういうの、つまんない。

だから、わたしは演奏者とも音楽の話はしないのです。

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