結月でございます。
ボチボチとコンサートをやろうかなと考えたりしながら、社会の様子を眺めている。だって客商売は社会状況次第だから。
しかし、コンサートって何のためにやって、何のためにその選曲をしたかってことが大事だと思うんだよね。ところが大抵のクラシック音楽のコンサートって、そこがはっきりしないものが多いんじゃないかな。
定期演奏会なんて存在意義が自分たち中心で、勝手に定期的にやってるだけなような気がする。定期的にコンサートを求めているひとって、具体的にどれくらいの数いるんだろう?
選曲も事務局や演奏者が「今度はこれやりたいよね?」なんてノリで決められたりもする。
もちろんそこには水準があって、その曲に関してそれはもうビビっちゃうくらい研究して、やっとお披露目という場合もあれば、アマオケ的なノリもある。
今までこの曲やってなかったから、挑戦したいよねっていうこともあるかな。
ともかく、そういうやり方っていうのは、ある程度のファンの数があって、そういう思いつきやノリとかでも客が入る状態のことだと思う。
定期演奏会なんて、それを支えるだけの会員とかファンがそのオーケストラにあって成り立つもの。
言ってみれば、供給より需要が勝っている状態で成り立つ。
ところが今は供給過多で、需要よりもコンサートの数が多いし、そこに動画配信まで加わって魚の数より釣り人が多い小さな池みたいになってる。
さて、何のためにそのコンサートをやるか?
これは大事なこと。
でも、そういう質問をすると得てして、
「音楽は人を幸福にする」
とか、
「子供たちにもぜひ聴いてもらいたいから」
だとか、
「音楽という感動を通して人として豊かになる」
とか、まあちょっと左翼的な、そして浅はかなヒューマニズムっぽいことが言われたりする。
つまりは抽象的すぎる。
別に音楽なんてなくても人間は幸福を見つけるかもしれないし、子供がクラシックを聴いたところで何が良くなるかもはっきりしない。そもそも人として豊かとか、意味わかんねーし。
何かしら影響はあるだろうけれど、それがすべての人に適応されることでもない。
例えば、
「海で泳ぐことは海の広大さを体感することで人間として最高の気分だよ」
なんて言われても、泳げないわたしなんかにはまったく通じない。それよりも、
「海で泳げとか、アタシを殺す気か、馬鹿」
と思ってる。
音楽も基本的にはその程度であることは間違いない。
つまり、コンサートを開催すること自体がただ自分たちがそこに携わってきて、好きだからやってるだけの話で、それを人間という大きな枠組みに対して拡大させるのは詐欺だと思うのよね。
だから、音楽家のインタビューとか、とにかく嘘くさい。
でも、コンサートは自分が好きなことをやらなくちゃと思う。そうでないとエネルギーが出ないから。
そこで思うのは、自分たちの「好き」をちゃんとお客さんに伝えなきゃいけないってこと。それはコンサート開催の前に。
演者と演目を写真付きで印刷したポスターなんて仰々しいだけで、そこは伝わらない。もっとなぜその曲を選んだのか、そしてどうしてお金を払ってまでその曲とその演奏を聴きにきてもらいたいかをしっかりと主催者や演奏者は伝えるべきだと思う。
でも、それはほとんどできないだろう。だって、それを考えてないんだもん。
ただやりたいからやるなんてアマチュアなんだよね。演奏レベルはプロでもコンサートの形式がアマチュア。
なぜそのコンサートを開催して、なぜその選曲をしたのか。そこにしっかりとした理由があるコンサートをすべきだとわたしは思う。
それはその曲の作曲家がどんな人生で、どんな経緯でその曲を書いたとか、客の感動にとってはどーでも良すぎる知識を説明することでは決してない。
コンサートを主催して、その曲を演奏する当の本人がどういう思いで、なぜそれを実行するのかをわかってもらうことが大事。
今はネット時代だから、それがすごくやりやすい。逆に言えばネットがない時代はそれを述べる場がなかった。せいぜい新聞で取り上げてもらうくらい。
そのコンサートで来客してくれたひとたちをどうしたいのか? どういう感動を与えたいのか? どういう提案をその人生にしたいのか?
それらは正解なんてなく、自分勝手な思いでいい。なぜなら提案を投げかける行為だから、正解を与えることじゃないから。
自分はその演奏でどういう提案をしたいのか? それができるためには社会のこと、人間のことに深い探究が求められる。
「今、こんな時代だから、熱いベートーヴェンを聴いて、皆さんにも熱くなってほしい!」
とか、やめろよ。そんなの暑い夏にビール飲もうよって言ってるのと同じだから。
ともかく、なんでそのコンサートをやりたくて、なんでその曲を選んだのかがよくわからないコンサートばかりなんだよね。
はっきりと言えば、オーケストラの存続のために続けなきゃいけないコンサートとかさ。そりゃ、金を稼がないとオーケストラも演奏者も食えないから業務としてコンサートはやらなくちゃいけない。
たとえ業務でもいいから、でもどうしてそれをやるのかをもっと力強く見せるべきなんじゃないかな。
そういうことをやらないでコロナで公演がなくなったからクラウドファンディングに挑戦するから「助けて!」なんて虫が良すぎる。
そもそもなぜそのコンサートをやるのかって考えていると、そんなに数はたくさんできるものじゃないんだよ。そういとも簡単にその意義は出てくるものじゃないし、数があればその意義は小粒になっていき、挙げ句の果てには、
「音楽は素晴らしい!」
なんていう単純なアピールになって、
「知らねーよ」
と、思われる。
最悪なのは、「子供たちのために」という枕詞で、これを言っておくといいひとに見られるし、いいことやってるように思ってもらえるし、興行的に失敗しても言い訳できる。
総じて子供のためのコンサートって、曲がわかりやすくて、あとは子供が喜びそうな(寒々しい)演出をしたりするものが多い。でもそれってわざわざコンサートホールでやらなくてもEテレの「おかあさんといっしょ」を見ておけばいい内容なんだよ。
それが将来の音楽家になるきっかけになるかもしれないという主張もあれど、
「おいおい、音楽家って食えないのが多いじゃねーか!」
と、将来の生活不安を考えれば、よほどの金持ちの家庭でない限り音楽はやらないほうがよろしいわけで、ずば抜けた才能がない限りは大成しないものを安易に薦めるべきじゃない。
ともかく、どうしてそのコンサートを開催するか、どうしてその曲を演奏するかについての具体的なものがクラシック音楽界には圧倒的に不足している。その辺りはロックバンドなどのほうがしっかりしていて、だからこそ観客と一体になる。
どうもクラシック音楽は社会から支持されない文系の学者っぽいところがあって、自分の学説だけに埋没して世間性が乏しい。まるで学術会議じゃないかと言いたくなる。
国文学者が源氏物語について語っても源氏物語が好きな人にしか通じないし、源氏物語がどんな作品かを専門的に述べられてもそれで人生が変わるなんてことはほとんどない。
だからただ「なされる」だけのコンサートばかりになって、そこに集まるのはニッチなファンだけ。新規が増えず、ファンは高齢化。
自分たちの思いを伝える努力がなさすぎる。そして自分たちの思いをどうやったら社会に伝えられるのかという試行錯誤が足りなさすぎる。
お客さんの要望に応える時代はとっくに終わっている。だから演目が描かれたチラシを配布するだけだとそれは何なのかは理解されない。
要望そのものがない時代なのだから、こちらから意義を伝えなきゃいけない。なぜこの演奏を聴いて欲しいのかという思い。
それをするには社会がわかってないとできない。それをわかってないと国文学者の源氏物語講義になってしまう。
社会の何を変えたいのか? 社会の何に伝えたいのか?
音楽なんかで社会がどうなるものでもないのはわかっていても、自分は少なからずどういうものを伝えたいのかをはっきりさせておかないといけない。
コンサートやるから来てね、で済むような時代じゃない。そのところの営業努力がプロオケもここの事務所も演奏家も足りないのではないか。
社会や人間への思いが希薄なコンサートを乱発しても音楽は躍動しない。
コロナで演奏会が少なくなり人数制限もされてはっきりしたことは、人は音楽がなくても死なないという事実。音楽が枯渇して自殺した人の話など聞いたこともない。音楽がなくて困るのはそれを仕事にしている演奏家など当事者だけなのである。
不要不急であるからこそ、自分がどうしてそれをやりたいのか、そして何を伝えたいのかを考えて、それを社会に訴えること。
それがないなら音楽なんてただのBGMでしかない。