結月でございます。
「コンサートってもうできないよね」というタイトルでのことはずっと前から考えて、書くのも面倒だったから頭の片隅に放っておいたけれど、GoToキャンペーンが東京除外になったりと、社会のコロナに関しての思考がかなり単純化されているのが顕著になって、何だかもう絶望的だなって気がしている一応これでもコンサートプロデュースのわたし。
思考の単純化というのはナチス政権下もそうだし、文化大革命の中国もそうだったし、まあ今の日本はそこまで過激ではないにせよ、構造的にはそんなことになってるよね。なんて言ってもモーニングショー的なトンデモが跋扈する中ではわかってもらえやしない。
科学的に判断するよりも、根拠がいい加減でデタラメな不安に対して政策が妥協しなければならないとなってはもうどうすることもできない。
わたしは今の政府はコロナに関してはまあまあよくやっているほうだと思っている。政治という大きな視点から、大きな流れを作り出すという仕事を今の政府はよく考えていると思う。
ところが個人とそれは理解しあえるものでなく、個人は目の前の不安に怯える一方、政治は国全体の大きさで個人を大まかな集合体として捉える。これはおかしいことではない。そうでなきゃ、政治は成り立たないから。
リベラルや左派はその原理を無視して、無理やり個人に政治を引っ張ろうとする。それらは政治的には少数派なのだけれど、コロナの不安に関しては政治的趣味を通り越えて、なんとなく社会全体が左派っぽくなって、それらが目には見えない集合体になってしまう。
民主主義、つまり選挙がある体制においては、そんな集合体に迎合せざるを得ず、だからキャンペーンから東京を除外するなんてことをしなければならなくなる。
しかし、それでなんとなく左派っぽい流れを抑えられたとしても、今度は東京都民を感染疑わしいヤバい人に認定できるコロナ警察的なものを助長させてしまう。
そうなるとウイルスの現実的なものよりも一層、妄想的に危険なものという認識になり、社会はますます生きづらくなるし、住む地域による差別も出てくる。
とまあ、全体を捉えることが仕事ではない局地的な専門家などの意見、それも専門家と言っているくせに内容がトンデモであったりするものが蔓延すると社会全体がワイドショーレベルになってしまい、お手上げ。
こうなってしまったら、残念だけどコンサートはもうできないよねってことで。
緊急事態宣言解除の後、プロオーケストラも活動再開を頑張ってきて、制限ありありでも少しはやり始めていた。でも、もうちょっとね、お先真っ暗じゃないかな。
今、無理やりやっているコンサートも2年前とか1年半前とかにホールを押さえて、その時点に企画ができていたものばかり。つまりコロナ以前のもの。
先に告知して金をかけてしまっているから、とりあえずやる方向で行かなきゃ仕方がない。
でも、2年後の定期演奏会は?となるとちょっと企画できないんじゃないかな。
つまり、新規のコンサートはリスクを考えたら怖くてできないよ。
コロナがどうなってるか予測もつかないし、ワクチンなんてそう簡単にできない上に、できたとしてもそれが流通するにはものすごい時間がかかる。
そもそも2年後まで自分たちのオーケストラ、存続してんの?という自問があるはず。
そうなると思い切った企画はできないし、資金的にもできないし、海外との飛行機が飛ばないのであれば海外アーティストも呼べない。
現状としては、客席の半分だけにしたり、有料動画配信をやっているけれど、動画配信すればするほどそれに慣れてしまって生演奏で聴かなくていいという習慣になる。
動画配信はチケット料は高く取れないし、しかし演奏するホールは必要だし、収益的には割に合わない。
それに今は自粛で数ヶ月コンサートができなかったことからの解放の歓喜があれども、そんなときめきは長くは続くない。動画配信だってすぐに飽きられるでしょう。
音楽は動画配信で惹きつけ続けるには向いてないコンテンツだからね。それに金を払わなくても国内オケよりもはるかに上手い海外の名門オケの名演奏がYouTubeにはアーカイブ化されていて、タダで見ることができる。
そして、実は一番大きな困難は、コロナに不安を抱える心理が主要となると、音楽的感動を人間は求めないという点。
不安に怯えている人は音楽ではなくワクチンを望む。もしくは都民が近くにいないことを望む。
客席の半分とは言っても、感染する可能性があるのではないかと過剰に思うのが不安に毒された人の心理だから、わざわざホールに出かけはしない。
となると、客席の半分が結果的にいいところ。つまり、座席に隙間があれば大丈夫だよね、と考える人だけへの集客という意味で。
だから、2000席のホールを2000人入れていいですよとなっても、決して満席にはならないということ。
音楽は人を救わないんだよ。
それは幻想であり、音楽家の自惚れ。人間はそんなものじゃない。
音楽なんてなくても困らなくて、でもあったほうがいいデザートくらいの価値しかない。しかし、音楽に携わっていると、デザートがない食事は幸せではない!と思い込む。
デザートを買う金がなかったり、そのデザートを食べるとお腹が痛くなるかもしれないと言われるとする。そこまでして人はデザートを求めない。
それでなくても、クラシック音楽的な快感はほとんどの人には受け入れてもらえず、強烈にニッチなもの。
だから、もともとニーズ的にも音楽は偉大なものでもないし、他人の人生に影響を与えられるほど壮大なものでもない。好きな人にとってだけ、それは効力を発揮する。
と、音楽を仕事にしていたり、オーケストラを運営している事務局などには言いたいことはたくさんあるけれど、それ以前に社会が音楽に到達できないほどの不安、それも過剰で過敏なまでの警戒心を抱えてしまっては打つ手なしなんだよね。
これからある程度の時間をかけて、音楽というものはアーカイブで見るものとなり、演奏者という職業もなくなっていくかもしれない。
GoToキャンペーンで停滞している経済を回し、ダメージが大きい産業が倒壊するのを未然に防ぐことで社会全体の経済を循環させようという試みが理解されずにワイドショーの煽りに騙されて猛批判されるようでは音楽だって生きていけない。
だって音楽は生活の経済状況がよくなくては、そんなもの、聴ける余裕なんてないから。
音楽家は自惚れているから、
「そんな人たちの心を癒すためにも音楽を!」
みたいなことを言うけど、いやいや、そこじゃねーし。パンがなければケーキを食べようと言っているようなもの。
だから、音楽的ロマンティシズムを堪能できる状態にない時代には音楽は無意味。
腹が立つのは、音楽家やオーケストラのズレまくった感覚よりも社会がワイドショー的なトンデモに煽られて、それを信じて怯えていること。
でもこれも仕方がない。感染症のことはそんな簡単な内容でないし、理解するにはある一定の頭脳というか学力が必要だし、それは人間は平均でないのだから、どうしてもワイドショーになってしまう。
GoToキャンペーンが東京除外となったのは残念なことだし、政府も苦渋の決断だったとは思う。
しかし、いくら大局的にやるべきベストを考えても、それを受け取る個人の能力がそれを理解できないのはこれまた仕方がない。
なるようにしかならないということで、現在は栃木県民であるわたしはGoToキャンペーンを利用させていただきます。