結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

猫の日でなくても毎日が猫の日

【スポンサーリンク】

結月でございます。

今日は猫の日だったらしい。2月22日で、ニャンニャンニャンということで、

「しょーもな」

しかし、世の中はちゃんとしたものよりしょーもないもののほうが受け入れられる。

ところで、スマホを眺めていたら、ラインからのバナー通知が来てウザいなと思ったのは、

「あなたは犬派?猫派?」

というもので、ラインスタンプの宣伝。

そんなくだらねーこと訊くなよ。猫派に決まっとるじゃないか。

とはいえ、犬のことは嫌いではない。犬はそれはそれでいいし、子供の頃にはシェルティを飼ってた。しかしながら、猫との生活を始めてしまうと、ちょっと犬には戻れない。

猫というのは麻薬的魅力があって、やめられなくなる。猫がいないとどうしようもなくなってしまう。まるでヤク中なのである。

猫が膝の上にいたり、猫が布団に潜り込んできたり、猫が体を密着させてきて寝ていたり、猫を抱っこしたり、猫とは触れるだけで「一体」になってしまう不思議な陶酔がある。

物理的には猫の体が柔軟性に富んでいて、毛もふわふわで柔らかいため、密着度が高いからだろう。犬は抱くとどうしてもゴツゴツした感じがする。

猫はとにかく柔らかい生き物で、それでいて爪は尖っていてデンジャラスなツンデレなところがいい。

もしすべてが柔らかければ、軟体動物になってしまい、快適さがない。

人間だってベタベタと甘える人間はウザいもので、甘え上手くらいがよろしく、それはすなわち甘えてはくるけれどベタベタとはではいかないという絶妙なものなのである。

ともかく、猫好きで、猫を共同生活をしている者にとっては毎日が猫の日であり、2月22日が特別なものじゃない。

ところで猫好きは猫を飼ってなくとも猫が好きなら名乗れるけれど、「愛猫家」となると一線を超えた資格めいた重厚さがある。

猫を飼うことは猫からもたらされる面倒も引き受けなければならない。しかし、愛猫家はその面倒すら猫愛として快感になる変態なのである。

わたしは生粋の愛猫家であるが、愛猫家として誇り高く非難したいのは、猫に服を着せたり、帽子を被せたりして喜んでいるクソ飼い主である。

猫に帽子を被せて可愛いと思い込んでSNSにアップするなんていう奴は、刑務所に入れるべきである。

なぜなら、猫に帽子というのは猫のことが可愛いのではなく、自分がそうして喜びたい究極の自己満であり、相手のハートを推測できないクズだから。

まずもって、そういう行為をする人間とは口を利きなくないし、猫のためにもそんな害悪でしかない人間は極刑に処するべきなのである。

これは猫好きの仮面を被った自己愛の極悪人に違いなく、人間相手にもその自己中ぶりを発揮しているに違いない。

正しい猫愛は「猫の好きにさせてやる」であり、自分の欲望の対象物として猫に無理強いさせるものでない。

猫とは好きにさせてやる度量をもって、猫に愛されるわけで、自我を消すことで猫との一体化が成し遂げられる。

その点、犬は飼い主との主従関係になってよろしくない。わたしは飼い主が散歩に連れて行ってくれるまでオシッコを我慢する犬に同情しながらもその主体性を他人に預ける忠実さを侮蔑している。そして、同時にその忠実さに惚れ込む犬派の人間も侮蔑している。まるで部下が思い通りになることが快感な上司みたいじゃないか。

ところで犬も猫もペットショップで買うものじゃない。買ってはいけないとわたしは思う。

それはペットショップで買う人間がいるからこそ、それが商売になり、売れ残りの犬猫が凄惨な処分のされ方をするわけで、さらに売れるからと無理な交配をしてわけのわからぬ種を作り出したり、とにかく残虐すぎる。

それもペットショップで「かわいい〜」なんて言っているのがいるからブリーダーが増やすわけで、生命を商材にして、さらにそれを売買する罪深さを理解しちゃいない。そして、売れれば売れるほど、在庫としての子犬や子猫が増やされて、売れ残りは処分される。

フランスではペットショップでの犬猫の販売が禁止になるらしい。日本でもいち早くそうすべきであるけれど、日本社会の特性を考えるとその実現はまだまだ先になるだろう。

犬や猫を飼いたければ、保護すべき犬猫はたくさんいるのだから、わざわざペットショップで買わなくてもいい。

「ペットショップで犬猫を買うのってクソすぎるよね、人間として」

という認識が広がれば、ペットショップは商売にならなくなって滅亡していく。その金の流れを止めないといくら殺処分ゼロを言ったところでイタチゴッコでしかない。

ちなみに自殺をなくす手っ取り早い方法は、自殺しようとする人に寄り添って説得することではなく、

「自殺するのってダサいし、クズだし、アホだよね」

という認識が社会の常識となることで、そうすれば自殺しようとするなんてアホ扱いされるし、したところで誰も同情してくれないとなって、自殺という手段を選ばなくなる。

ヒューマニズムで自殺に寄り添うことでは自殺はなくならない。それは寄り添うことで自殺志願が甘えとなるからであり、解決するつもりが自殺を誘発してしまう。

犬猫の殺処分ゼロも同じで、ヒューマニズムでやろうとしてもうまくはいかない。まずはその流通の金を止めること。商売にならないようにすること。

それは買い手をなくすこと。ペットを購入する客をなくすこと。客がいなければその業種はなくなる。

そのためには「犬猫をペットショップで買うのって人間としてクズ」ということが常識にするのがいい。

犬猫好きをヒューマニズムを通して殺処分ゼロに取り組むよりも根本を断つことが大事。

だからヒューマニズムではなく、ペットショップで「かわいい〜」なんて言う人間はクズなのだと、そのクソすぎる人間性と無知を真っ向から否定して大胆に啓蒙するべきなのである。

ペットショップで猫を見て、

「かわいい〜」

なんて言えるのは猫好きとも言えない。猫の可愛さを自己の快楽にしているだけ。

そもそもペットショップで、どの猫にするかなんて選ぼうとする行為が最低すぎる。まるで風俗店で女の子を選ぶような感覚じゃないか。

猫というのは「訪れるもの」なのであって、選ぶものではない。

ペットショップで1匹の子猫が売れるために、一体何匹の子猫が殺処分されるのであろうか?

商売の原理として、一つ売るためには一つだけの在庫では成り立たない。一つ売るためにはその何倍もの在庫が必要で、猫の場合は大きくなっては売り物にならないというまるで生鮮食品みたいな状況下にあって、でも猫は食品とは違い、生きているのである。

【スポンサーリンク】