結月でございます。
コロナに関係なく、日本人は未来よりも過去を語りたがる国民性な気がする。
ちょうど今日は広島の原爆記念日だけれど、原爆が投下された過去の事実に対しては黙祷を捧げたりする一方、じゃあこれから核というものを現実の中でどうしていきたいのか?そのためには具体的にどうすればいいのか?そして行動しよう!というのが毎年抜けていて、原爆のことをちょっぴり振り返るイベント化している。
とはいえ、原爆に関しては国際的な立場や状況を考えれば、特に日本としてはやることがないというのが現実だけれども。
さて、過去がどうとかそれを反省材料として検証するのはよしとしても、ただ過去を振り返るのは同窓会にありがちな悪趣味。
だって変えられぬものを語ってどうする?
さらに人間は嬉しかったことよりも辛かったことをよく憶えているものだから、過去のことを考えすぎて「怨念化」しやすい。これは生ける怨霊でよろしくないし、怖い。
本人にとってもよくなければ、他人に対しても迷惑で、怨霊化しないよう気持ちは常に未来に向いておくのがいい。
ところが未来をプランニングできるひとは思いのほか、少ない。計画を立てることはちょっと特殊な能力なのかもしれない。
あとは性格的な明るさと暗さ。
当然、過去を語る人間は暗い。その過去がいいものだとしてもセピア調になっていて、どこか暗い。だってそこには帰れないんだもの。
未来は自分で創造できるもの、創造するものだから、未来を語るのは楽しい。
当然、その未来は予想通りには行かず、失敗もあり、やらなきゃよかったと思う結果になるかもしれない。でもやっぱり過去ばかりグダグダと話している人間よりは実行した人間は清々しい。
今はコロナで社会が暗くなっていて、コロナ以前に戻れるかなんて話も聞く。
いやいや、そんなの、戻れないし。
ウイルスは根絶できるものじゃないんだから、戻りたいと思ってもウイルスがそうさせてくれない。
だから、わたしたちはたった半年前のコロナのなかった過去はもう忘れなければならない。そこに執着してはいけない。
それよりも未来を語ろう。
経済的なところでは未来はどうもかなりヤバい。壊滅的かもしれない。いや、多分このままいけば壊滅的になると思う。
社会自体が熱病にかかったように不安や恐怖で正常な判断を失っているのだから、その結果はいいものではない。
思い出すのはオウム真理教で、国立大卒の優秀な人たちまでもが入信してしまったオウム。
今は社会全体がオウム化しているよう。
ちゃんとした学歴があるひとまでもテレビに煽られて非科学的な情報を信じて怯えていたりする。
オウムだってそういう終末思想があって、高学歴の信者たちが本気で信じていた。
人が誰も歩いていないようなところでもマスクをずっとしていたり、それはオウム真理教信者がしていたヘッドギアのようなもの。
オウムで信者同士でリンチがあったように自粛警察が我が物顔で正義を振りかざす。
連日メディアに出ていた上祐のように今は岡田晴恵がテレビに連日出演し、いい加減なことを深刻そうに述べている。
イソジンが売り切れたりするのも、オウムでご利益があるとされた麻原彰晃が入った風呂の残り湯を信者が買い求めたのと同じ。
坂本弁護士が殺されたようにまともなことを言う学者に脅迫が来たり、同時に学者でもトンデモ論を本気で発信するのもいる。
麻原は死刑になっても、日本社会のオウム的なところは何も変わっていなくて、コロナでそれが宗教以上に湧き出たという感じがする。
さて。
未来を終末思想と結びつけると、どうも人間はよろしくないようだ。
かといって、能天気な楽園を求めるユートピアも困る。
もっと現実に足をつけて、未来を語らなくちゃいけない。それを踏まえて楽しく。
なぜなら、楽しい未来を創造できるのは自分でしかないから。
悲観していると楽しい未来は創れやしない。
いくら経済的には壊滅的になりそうだとしても、どこかに抜け道があるはずだから。
ただ、その抜け道を行くには、過去に執着してはいけない。この際、手放すべきものは手放さないと前には進めない。
悲観ばかりのトークに時間をかけすぎやしてないか? それを自分で確認する必要がある。
その悲観的なトークは、果たして自分に何かいいものをもたらしただろうか?
悲観したままで、停滞していやしないか?
コロナが怖いと恐れたところで、自分が何かいいことがあったか? 自分が未来へ行ける新しい材料になったか?
そんなことはあるはずがない。ほぼ100%が無駄。
どこそこに感染者が出たとか、今日の感染者数は何人だとか、そんな情報を憂えることで具体的に何か得たもの、具体的に何か自分が進展したことはあるだろうか?
そして、心配して、憂えて、その通りに感染してしまって死にかけているのだろうか?
確かに死ぬ人はいる。しかし、それは歩いていたってブレーキとアクセルを踏み間違えたクルマが突っ込んでくる時もあるような不確定な不条理にすぎない。
人間は不条理の中で生きていて、それはいつの時代もそうなのだから。
人間の実力では、不条理を全てコントロールすることはできない。
コロナがなくても人間はそんな渦の中に生きている。だから、ウイルスのことは本当に感染してから考えるしかなく、感染もしていないのに心配で心配で仕方がないというのは時間と精神の無駄なのだ。
半年前のコロナがなかった過去をノスタルジーな思いで自分の基準にするからそんなメンタルになる。
未来を創る。戻りやしない過去は忘れて、未来を自分でコーディネートしていこう。
ちょっと変化が急すぎて、いきなりすぎてすぐにはそれはできない。すぐには方向性は見出せない。面食らった感じ。
まだ「う〜ん」と悩んでいる時期だ。
でも、その「う〜ん」は未来のために悩んでいるのであり、過去へのノスタルジーへの思いのものでない。
将棋で言えば、自分が読んでいない手がいきなり打ち込まれた状況で、わたしたちは次の一手を考えなければならない。
考えるべきは次の一手であり、盤上で後悔することではない。
「さあ、次は何を打とうか」
そういう未来性を持って生きていこう。
とにかくコロナがあまりにもいきなりすぎて、新たな未来に生きるには辛い選択をすることも必要になってくる。今まで培ったものをすべて捨てなくちゃいけないかもしれない。
例えば、飲食店をしているなら、愛着のあるその店を今のうちに閉めてしまうことも選択のひとつとも言える。
ダメージを最小にして、次の一手にするのも戦略と言える。
その苦渋の切り捨てが未来に繋がるなら、そうすべきだろう。
厳しい現実はちゃんと直視し、理性でもって必要不必要を見極め、最後に胆力で持って行動する。
未来とはそうやって自分で作るものだから。誰かが与えてくれるものじゃない。
未来を考えることは楽しいものなのだ。
だから、今を悲観ばかりしていちゃいけない。
そんな暇があれば、未来を考え、未来を語ろう。