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新しいものがハッピーを生む

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結月です。

テクノロジーというのは常に進化するものであって、あまり進化しないのはヒューマニズムかもしれない。

ChatGPTみたいなものが出てくるとそれを楽しむ人と否定する人とが出てくる。でもテクノロジーは社会を変化させていくので、否定派もいずれはその新しい世界に馴染んでいく。

インターネットだって最初はオタクの怪しい奴がやるようなものに思われていたが、今は皆がスマホを通して手元で使っている。

ネット通販も20年くらい前は実物を見ないで買うなんていう感性が育っていなくて、高額商品はまずネット通販では扱われなかったし、扱ってみてもほとんど売れなかった。でも今は高級腕時計だってネット通販で買えるし、買い物に出かけてわざわざ探すよりAmazonで検索して発注したほうが早い。

デジタルカメラが出た当初は画質も悪く、

「あんなもん使えねえ。フィルムの質感に敵うわけがねえ!」

さらには、

「撮影したものが現像しないとわからない緊張感がいい写真を生み出すんだ!」

みたいなことを実はわたしも言っていたけれど、今、フィルム撮影するなんてファッション誌の表紙だってしないだろうし、そんなファッション誌もスマホの登場によって読まれなくなってどんどん休刊している。

と、このようにテクノロジーの進化には抵抗しようがないし、かと言ってそれで人間が崩壊するかというとそうでもない。ネットが出てきたとき、特に2ちゃんねるでは犯罪の温床みたいなことが言われたり、誹謗中傷が書き込まれたりと問題になったけれど、今はそういう書き込みを真に受ける人も少なくなったし、書き込まれることに同情が集まったり、そもそもそんな情報なんて信用されなかったり、検索エンジンでも表示するに値しないものとして出てこなかったりしている。つまり、人間はちゃんとそういうものに対処しているのである。

ChatGPTだって同じようなもので、思えば従来の検索エンジンの発展形といった具合で根本的には変わらないように思う。

ChatGPTで論文を書けると言っても、随分昔から検索して誰かの論文をコピペして仕上げる卒論なんていくらでもある。自分で書いていない点ではどちらも同じ。

ただ手間が圧倒的にChatGPTのほうが楽で、プログラミングのソースまで作ってくれるのだからただのコピペでは動かないプログラムもChatGPTだと素人でも動かせる。

となれば、ChatGPTのおかげで素人でもプログラミングの技能が得られるから、そこからさらに人間は進歩的な社会を作っていくだろう。

Google検索のおかげで図書館で膨大な資料を探すという手間がなくなり、知識がスピーディに得られるようになって思考の速度もスピードアップできるようになったのと同じように。

ともかく、誰かの噂話を耳にしてそれを検証なく信じる人は昔からいて、それがGoogle検索による怪しい情報を信じるのも同様の原理であり、それであるならChatGPTのほうが信頼性は高いかもしれない。

最終的にはその人のリテラシーというか、情報精査能力によるもので、それがない人は噂話もGoogleもChatGPTもどれを使っても結果は同じ。検証なく、怪しいものをまともに信じる。コロナワクチンの陰謀論とか非科学的な話はリテラシーがあれば「そんなわけねーだろ」と瞬時にわかるが、それがなければワクチンを接種すれば泡吹いて死ぬとか、不妊になるとか科学的にあり得ないことを本気で信じる。

そういう意味では今後、ChatGPTが正しく導いてくれる気がしていて、陰謀論は少なくなるかもしれない。

ともかく、こうした画期的に新しいものを受け入れるか拒絶するかでその人の将来は違ってくる。拒絶していると時代からどんどん遅れてしまい、現役世代だと出世しないだろうし、時代遅れな人として仕事もなくなるだろう。

そうなることがわかるのは、他ならぬわたしが昔そうだったからで、古き良きものなんかに傾倒した時間が長過ぎたせいで人生のうち30年は出遅れたと思う。

でも今はそれを完全に払拭したおかげで、自分と同世代の人たちが近づいた定年をおぼろげに意識し始めているのにわたしはまるで新卒のように新しいことを始めている。

だから、ChatGPTも大歓迎で、そのテクノロジーによって変化していくこれからの社会に興味がある。

わたしは変化を楽しみにしているし、常に情報を更新して生きていきたいと思っている。だから、この期に及んでまだマスクを外せないとかいう人のことが不思議、というかそういう更新できない人とは関わってもつまんねーなと思う。それに外でマスクして歩くことは感染予防の意味がゼロであるのにそうしているネガティヴな精神、というか人目が気になるとかもはやメンヘラとも言えそうなメンタリティーの人とも関わってもこちらが得るものはなさそうだから関わらない。

とにかく変わりゆく情報を更新して生きていけない人はきっと停滞というなの後退をし続けるだろうから、そこからは新しいものは生まれるものはなく、その人の人生が衰退するんだろうなと思いながら眺めている。

どんどん先進的でありたい。今まで見たことがないものを見てみたい。誰もやったことがないことをやってみたいし、マンネリを見つけるとぶっ潰したい。

さて、クラシック音楽はAIの出現で残っていくのだろうか?

残る気もするし、ほとんど残らない気もする。

というのは、コンサートホールで生身の人間が演奏するような形式がなくなるのではないかとも思う。と同時に残るかなとも思う。

将棋界でAIが登場して、名人らが尽くAIに敗退し、今はもうAIに人間は勝てないとはっきりした。でも人間が指す将棋はなくなっていない。おそらくAIがすご過ぎて、一般人には何億手もの読み筋なんて意味不明だから、結局のところ人間レベルのところに落ち着くのだろう。

コンサートがなくなるかもしれないのは、AIで例えばカラヤンが生前録音していない曲をカラヤンが演奏したらどうなる?と指示して、そのサウンドが本物と見分けがつかない音源で演奏されるとどうだろうかと思うからである。

そういうことが簡単にできるようになれば、高い金払ってコンサートに行くよりもおもしろくなってしまうかもしれない。

あとは演奏そのものがすでに飽和状態であるから、AI演奏を家で聴くみたいな趣味もありそうである。

またモーツァルトの交響曲第42番もAIで作曲できて、それがなかなかいい曲ということもあり得る。

しかし、そのような試みはおもしろいのは最初だけで、それが当たり前になってくるともはや音楽の価値はなくなってくる。そうなると生演奏を聴きに行くなんて趣味は、車社会における乗馬趣味くらいの規模になるのではないか。

でも、音楽を愛する人は、

「音楽の素晴らしさは絶対になくなることはない!」

とか言いそうだが、それはただの思いこみであって、自分が好きなものへの希望的観測であって、意見であり事実ではない。

ともかくわたしはクラシックの生演奏というものがそんなに長続きしないのではないかとも思っていて、20年後くらいにはコンサートホールの不良債権化の取り壊し問題なんかがあると予測する。

2000席もあるようなホールに使い手はなく、維持費がかかり、それなら更地にしてアミューズメントパークにしたほうがいいとか、百貨店で起きている現象がそのままコンサートホールにも訪れるのではないか。

でもそれで寂しくなるなんてことはなく、需要がなくなったものはなくなってもそんなに気にならないし、それに変わる趣味や娯楽が生まれているだろうから、つまりそれが人間の進化であろう。

フィルムカメラがなくなってデジタルになり、さらにスマホになったことで写真愛好家が寂しがっているなんてことはない。

古びていくものに固執して不幸になるよりも新しいものに飛びついてハッピーになるほうをわたしは選ぶ。

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