結月です。
例えばマスクを外せないなんて話を聞くと、日本人って状況が変わっているのに変われない人が多いんだなっていう事実が見えてきたりする。
コロナ以外にもすべてのものが日々変化していて、こうしているわたしたちの肉体だって細胞分裂を繰り返しているし、血液だって寿命は120日ほどで体の中で古い血液は破棄され、新しい血液が作られる。
であるからして、変化しないものはこの世にないわけで、般若心経の「空」とも言われるのだけれど、とにかく変化の中にいる。
死んでいくものがいて、生まれてくるものがいて、そうやって時間が進んでいくと社会も変わるのは当然のことで、それに伴って常識も変わる。だから、考え方がずっと変わらず昭和のままなんてのは令和の時代には通じないし、令和の中でもコロナ前とコロナ後ではすっかり変わっているだろうし、変化は止まることがない。
思えば21世紀になって20年以上経っていて、日本の社会だけ見ても随分変わったものだと思う。
21世紀になったときはインターネットが普及し始めたくらいで、接続はダイヤル回線だった。当然スマホなるものは存在していなかった。
YouTubeもなかったしTwitterもなかったし、Facebookもなかった。わたしも21世紀に切り替わった頃は西武池袋線でいつも新聞を読んでいた。今に比べると情報量がものすごく少なくて、東京のレストランを調べるにもガイドブックを買ったりしていた。Amazonもなかったので、書店が一番情報を得られる場所だった。
20年ちょっと前を振り返ってもそんな時代であって、今はいろんなものが変化したとわかる。
自分も年を取ったし、考え方もかなり変わった。こんなに変わるものかと思うくらい過去の自分と今は異なる。
どこがどう変わったかとはすべてを特定し得ないけれど、昔より新しくなった、とは思う。
時代が進行しているのだから新しくなるのは当然だと思われるが、実は人間は年を取るに合わせて新しくならないものである。
いまだに昭和の感覚のままの団塊世代も珍しくない。昭和50年のまま年寄りになっている。
平成10年代のまま令和を生きている人もいるだろう。
わたしの場合は、若い頃が年寄り的であって、映画が好きだったからたくさんの映画を見たが、それらは映画史の中で1930年代から新しくても80年代までであり、21世紀になってもそんな時代の映画を好んで見ていた。
音楽だって流行には疎く、20世紀の巨匠たちのクラシック音楽ばかりで、そんな感じだったせいか、若い頃には年寄りに話が通じる「おじさまキラー」であり、自分より年上の人とはいくらでも話ができた。
そういう逆行をしていたものだから、新しい時代、特に2000年代が本格化してパラダイムシフトが起きて、自分が時代に通用しないとわかった。
そんなわけで、新しいものを積極的に取り入れる方向転換をし、すると世の中が楽しく見えてきて、肉体的には年を重ね、自分の生年月日からはどんどん離れていっているのに若くなっている気がする。明らかに20年前の自分と今の自分では今のほうが若い感覚だと思う。
だから、自分より若い30代の人と話たりすると、それが平成の感覚だったりして、
「この人、古いな…」
と感じたりすることもある。
さて、仕事をしていると、いろんな人、いろんな世代とやり取りするのであるが、昭和的な人にも出会うし、昔のままな手続きの会社もあるし、時代錯誤を感じることが多々ある。
きっと自分の感覚が止まったまま過ごしているに違いない。FAXで送ってくれと言われたりして、ギョッとすることもある。
そういえば、ガーシーが議員をクビになったけれど、登院しないという理由で選挙で選ばれた議員をクビにする感覚も実に昭和的である。オンラインで成立することをやらないで、現場に来ることを求める感覚は古い。
ともかく、変われない人、変われない組織が多い、というか変われないのがスタンダードなのかもしれない。
しかし、いくら自分が変われなくても、いやでも時代は進み、絶えず変化している。
考え方という非物質的なものが昭和のままでも、肉体をいう物質は昭和の頃の若さはないわけで、人間はすべて変化する。
だから、変化に対して素直であるべきで、そうでないと変化しているという事実と自分にズレが生じてしまい、それがストレスになったり、物事がうまく進まなくなる。
それなのに旧態依然としたものが跋扈していたり、幅を利かせていたりするのを見ると、
「そういうの、長く続かないけどね」
と、冷ややかな目で見ながらも、そういうものと関わらなければならないときは、
「あーめんどくせー」
なんて思う。
そういえば、今月、4月から小学生になる愛娘のランドセルを学校に取りにいった。ランドセルの発祥は明治時代の学習院かららしいが、明治、大正、昭和、平成、そして令和になっても小学生はまだランドセルなのかと思った。
こんな伸び縮みしなくて使いにくいものを背負わせて何がいいのだろう? 小学生はランドセルという考え方は変わらないものだろうか? それにランドセルは背中が曲がる。姿勢が悪くなるから体には良くない。
変わったといえば、ランドセルがおそろしく軽量化されていたことだった。
しかし、わたしの小学生時代は京都限定で流通している「ランリック」であり、ランドセルでなかった。ランリックとは要するに黄色いリュックサックで、ペラペラの生地だから軽い。
京都地方では、ランドセルかランリックかでその家庭が金持ちか貧乏かわかるが、わたしは貧乏サイドにいたのか、親がケチだったのかわからないが、友達のランドセルを持たせてもらってあんなクソ重いものはお断りと思った。だから貧乏臭いランリックに不満はなかった。
そんなランリックも全国的に普及しないのは、小学生はランドセルという変わらぬ考え方があるからで、変わらないというのはすなわち「疑わない」ということであろう。
疑わないは思考停止であるから、変わるわけがない。
さて、21世紀だって5分の1が終わった。残りは76年程である。どうやらわたしは22世紀の世界を見られないようである。寿命が足りない。
6歳の愛娘の寝顔を見て、この子はなんとか22世紀の世の中を見ることができそうだと知る。
先日、愛娘とテレビを見ていたら、98歳の婆さんが出てきた。そして、
「あんたが98歳になったら、どんなのだろうね? 今はこんなに可愛らしいのにあんたも婆さんになるんだね」
と言った。
どんな姿になるか見ることはできないけれど、興味はある。
万物は流転する。
万物はすべて変化するという意味だ。
これは紀元前500年頃に古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが言っている。
今から2500年以上前に気づいている人間がいたのに、変われない人たちが大勢いることが不思議である。
正確に言えば、もう変わっているのにそれを知覚しないという鈍感さ。