結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

ミラン・クンデラ、ジェーン・バーキン

【スポンサーリンク】

結月です。

作家のミラン・クンデラが亡くなったというニュースを見て、クンデラってまだ生きてたんだととっくの昔に死んでいたと思い込んでいたわたし。

代表作は『存在の耐えられない軽さ』であるけれど、わたしは『冗談』を読んで共産主義の恐ろしさがこういうことかとその異文化を肌身で知った。

時代も国も違うものを肌身で知るのはなかなか難しい。例えばニーチェの哲学にウンチクする人はたくさんいるけれど、当時のドイツがどんな歴史でニーチェの時代を迎えていたか、さらに哲学史としてどうしてニーチェがあの思想に至ったかを当時の時代感覚を等身大に感じながら理解する人はほとんどいない。学者だって多くは著作の字面だけで研究している。

だから、わたしにとって共産主義の怖さはクンデラの『冗談』でやっとわかったというわけで、でもそれも小説を通してであり、実体験でないからリアリティはない。

それは戦争体験も同じでウクライナの戦争を見てその反対を訴える人は日本にもたくさんいるけれど、ほとんどは戦争体験がないからちょっと説得力が乏しい。もし瀬戸内寂聴さんが生きていて、

「戦争はいけません」

と言うとものすごく説得力がある。

そう言えばわたしの祖母も戦時中は北九州にいたらしいが、B29の爆撃で空襲警報が鳴ったときは部屋の電気を消して真っ暗闇にし、防空壕に逃げ込んだという話を小学生の頃に聞いた。顔をしわくちゃにして九州弁で、

「戦争はやったらいけん」

と言っていた。それはものすごいリアリティだったのである。

そして今日、ジェーン・バーキンがパリで亡くなったというニュース。バーキンはまだなんとなく生きてただろうなと思いつつ、年齢的にもさほど驚かない。

しかしバーキンと言ってもエルメスのバッグくらいしか世間では認識がなさそうだし、バッグのバーキンは知っていてもそれがジェーン・バーキンだとは知らない人がほとんどではないか。

バーキンはセルジュ・ゲンズブールと結婚して、その娘がシャルロット・ゲンズブール。

極端な両親から生まれるとなるほど娘も極端であるけれど、わたしはシャルロット・ゲンズブールが大好きである。ああいう顔がたまらなく好き。アンニュイとはまさしくあれなのである。

フランスのリヨンにいた頃、毎日映画館で映画ばかり見ていたが、印象に残って自分の中で忘れられない映画がいくつかある。

その中の一つがミレール監督の『小さな泥棒』で、まだ10代のシャルロット・ゲンズブールが主演。

あれはトリュフォーの『大人は判ってくれない』の女版という位置付けだが、フランスにはトリュフォー的な映画がある。

トリュフォーをこよなく愛しているわたしは当然、『小さな泥棒』もドンピシャで、ゲンズブールがとてつもなく魅力的だった。

しかし、クンデラが死に、バーキンが死に、ああ、時代が進んでいるんだなと思う。それらは20世紀の人たちで20世紀の文化の担い手が死んでいく令和。

いやいや、そもそもわたしだってシャルロット・ゲンズブールが好きとか、『小さな泥棒』とか言っている時点で終わってる。もう古い話なんだ。

でも、シャルロットは母バーキンとのドキュメンタリー映画を撮ったらしくて、東京でも8月から公開される。『ジェーンとシャルロット』。

シャルロットが監督をしている。女優でもあるし歌手でもあって、やはり父親譲りの才能なのである。

予告編を見たが、やっぱりシャルロットのフランス語はアンニュイ感が漂っていて、色気があって、あれがまさしくフランス語。たまらないフランス語。

絶対見にいくと思うも、マイナーな映画だから東京でもマイナーな映画館でしかやらないだろうとから6歳の愛娘同伴というわけにもいかず大変だなぁと感じていたら、宇都宮でも9月から上映するとのこと。

それは宇都宮の寂れまくったオリオン通り近くにあるヒカリ座というこれまた昭和のままのサビだらけのビルの中にある名画座。

この界隈は毎週訪れているから、シャルロットの新作を見ることができそう。

ヒカリ座はドがつくほどのマイナー作品から、昔の名画のデジタルリマスター版の再上映をしたりしていて、たまにいい映画をやっている。去年はチャン・イーモウ監督の『ワン・セカンド』を見に行った。やっぱりものすごくいい映画だった。

フランスには小さな名画座がたくさんあって、昔の名画もたくさん見られる。しかし、今はどうなのだろう? フランスには10年以上行っていないので変わってしまっているかもしれない。

できれば『ジェーンとシャルロット』もパリで見たい作品。映画は現地で見るのと日本で見るのとはまるで感覚が違う。

リヨンやパリでは黒澤明や小津安二郎、溝口健二らの映画をよく見たが、フランスの土地でそれらを見ると日本というものが異質に見えて、距離感が出るのである。だからフランス映画も日本で見ると外国作品というニュアンスになって等身大に感じにくい。

さて、自分がいよいよ死ぬときはその1年前くらいにパリに行って、パリで死にたいなと思う。その1年をパリで満喫して、毎朝目が覚めるとパリにいるという幸福。

しかし、そうやって死のうと思っても簡単ではなく、そのために金はたくさん持っておかねばならない。自分の死体はどう処理するか? 大好きなオスカー・ワイルドやモディリアーニ、そしてエディット・ピアフがいるペール・ラシェーズ墓地に埋葬してもらうように手続きする。

そうなるとやはり金がたくさん必要だし、ツテもいる。

バーキンもパリで死んだみたいだし、思えば映画監督の中で最も敬愛しているタルコフスキーもパリに亡命してパリで死んでいる。パリには憧れの人がたくさんいるのである。

パリで死ぬには今を頑張らないと叶わない。死を意識するから生をしっかりと意識できる。

今の生をしっかりとできない人というのは、来るべき死を意識できていないからなのだろう。

自分がどう死ぬかを考えることによって、生を生き生きとさせる。

【スポンサーリンク】