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雑な時代だから大きな思想が生まれた。

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結月です。

テレビをつけると菅原文太主演の『現代やくざ 与太者の掟』という1969年の映画をやっていたので食後のエアロバイクを漕ぎながら見ていた。

高度成長期の新宿が舞台。昭和の雰囲気がムンムンだったからなんだか懐かしくなって見てしまった。

寺島しのぶの母親である藤純子があまりにも日本的美人で、昭和の頃って今と違って女が女の顔をしていた。

しかし、昭和はとにかく雑で今から見ると笑えるほど単純なのだけれど、単純なほうが楽しさはあると思えた。

わたしは哲学が好きだから、今でも哲学史のことはいろいろ勉強する。人類は歴史を追いながら新しい思想を生み出してきた。そしてそれが生まれるときは前時代の否定であったり、新時代が来てそこに適応できない社会問題がえげつなくなったりしたときなのである。

わかりやすいのはマルクスで、そういう思想が出てきて当然なひどい社会だった。

要するに社会が雑であればあるほど大きな思想が生まれる。今は大きな思想が生まれず、哲学界も長らく停滞していて、ポスト構造主義を言われ始めて40年くらいはあまり進歩していない。それはきっと社会がきめ細かくなって、社会に問題はあれど雑さがもたらす人間的エネルギーが爆発しにくいからだろう。

映画にしても菅原文太のヤクザものなんてくだらないことですぐに喧嘩はするし、短刀まで持ち出す始末。女の人権なんてない時代で惚れた女に対しても扱いはまるでペットである。まったくひどい時代だとは思うけれど、映画には今にはない力強さがあってエネルギーがある。

今の映画は細かく作り込まれてはいるものの、迫力がない。展開の上手さが先行して、絵に力がない。

クラシック音楽だって20世紀までは強烈な指揮者が続出した時代で、それはそれはとんでもない巨匠がごろごろいた。でも今はそんな強烈さはなく、器用ではあるなというが薄っぺらというか、軽い。

政治家もそうだ。日本ですら昭和の政治家はアクが強くて、権力者だった。今はなんとも小粒で強引さもない。女性議員に至ってはエッフェル塔ではしゃぐほどの修学旅行。

そう考えれば、社会が程よくいい感じということかもしれない。そんな力強さがなくても生きていける。でも薄っぺらで迫力がなくて、腹の底から込み上がってくるものがなく、その代わり全部頭でドライに処理して終わり、みたいな。

おそらく怒りを持ちにくい時代なのだろう。だから反骨がなく、思想が生まれない。日々とりあえず生きていくような生ぬるさ。

かと言って、すごくいい時代にも思えない。可処分所得は上がることはなく下がり続けている。将来的な明るさがすぐそこに見えていたら頑張る気になる、そんな昭和の80年代の盛り上がりもなく、やりようのない空虚さが漂っている。

思想が出てきていいはずなのにそれが生まれるエネルギーがないようである。

ネットもあり、スマホという端末をみんなが持っているから隙間時間への渇望もなく、ただなんとなくYouTubeを見たり、サブスクで動画を見たりする。

だから、思想を生み出すまで考えることをしない。怒りがたまりにくい。怒り以前の不満が小康状態で、それを誤魔化すのにYouTubeがあったりして不満が怒りにまで達しない。

昭和までは社会が雑で、考え方も雑だったからもっと単純に反骨精神が生まれた。だから思想は生まれず、凄みのある映画もなくなり、巨匠は絶滅し、芸術も生まれない。

今は芸術が「パフォーマンス」になってしまった。

芸術が要領の良さでこなされるようになった。

精度は高くなったけれど、凄みがなくなった。

ついでに言うと、恋愛がなくなった。

人間のエネルギーの総量が変わったわけではない。エネルギーがたまらず、ガス漏れのようにちょろちょろと漏れ出ているから大きな爆発が起きなくなったのである。

だから、思想も政治も映画も音楽も多くのものが薄っぺらになった。

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