結月でございます。
公演が近づいてきて、チケット業務やその他諸々の雑務が目まぐるしく、今年一番の忙しさ。
毎回、公演はこうだったのかよく憶えていなくて、喉元通れば熱さ忘れるで終わったことを憶えちゃいない。だから昨年はどうだったか記憶がないのだけれど、今年は同じ時期に公演2回であるからきっと昨年の比でない。
何か大事なことを忘れてやしないかと間近になると心配がマックスになる。当日うっかり忘れていたなんてことが怖くて仕方がない。
と、今日も座席のことをやっていたら、プレイガイドに頼んでいたことが先方が忘れていて、というかわたしの意図することを理解していないのか処理されていないことがわかり、急いでメールを送る。
これはミスりそうだなと予感めいていたけれど、やっぱりだったわけで、オーダーがちょっと複雑だったのかもしれない。
しかし、念のためと送られてきたファイルを精査しておいてよかった。向こうを信用してスルーしていたら大慌てだった。
こういうことは公演間近だと本当にヒヤッとするもので、気が気でないのである。
と、そんな忙しさの中で、東浩紀さんがやっているゲンロンの動画を見る。ゲストが成田悠輔さんで20分ほど無料公開されていたのを見ると、なかなかおもしろかったので990円で動画を購入した。
5時間ほどある討論なのでまだ1時間ほどしか見ていない。
わたしは東浩紀さんが好きで、その著作も読んでいる。『ゲンロン戦記』は世間知らずの文系だった東さんが事業を立ち上げることでいかに実務が大事かという世間では当たり前のことに気づいた話で、これはわたし自身もそうであったからとても共感しながら読んだ。
2016年までのわたしは実務がダメダメで、会計もできないし、表計算を見るだけでアレルギー反応という人間で、要するに感性だけで生きていたからそういう現実的なものはできなかったのである。
ところが2016年にサントリーホールで大きなコンサートを開催して、実務的なことがきっちりとできないとやっていけないことを痛感し、己を大転換させたのである。
いくら感性が鋭くても実務能力がないと現実はやっていけない。
それを知ってからは感性的な「いい加減さ」を排除するようにして、それでもまだ排除し切れてはいないところはあれど、実務能力という足腰を鍛えた。
であるからこそ、こうして公演も今年できるわけで、今では役人が書くような「悪文」だって読み込める。昔はそんな悪文なんて感性が拒絶して放り出していた。
とまあ、そんなところが東さんと一緒だったので、
「わかる、わかるよ」
と、本を読みながら同調していた。
そして、現実をきっちりとやる実務を理解した東さんがTwitterなどのSNSのやり取りに絶望したのもよくわかる。実務の本質からするとSNSの書き込みはデタラメすぎる。相手にしてられない。
さて、そんなゲンロンを見ると、東さんに絶望色がその表情に見ることができ、
「ああ、東さん、絶望してるんだな…」
と、感じる。
それは成田さんについてではなく、きっと日本社会に対して。少なくとも希望は抱いていないように思う。
その気持ちもよくわかるのだけれど、それだとキツそうにも見えるわけで、今東光の言葉、
「失望することなかれ」
とは易々と言えないのである。
しかし、言論人にとっては絶望的な社会であるのは確かで、真面目に考えれば考えるほど損をする。
その果てに自分の空間であるゲンロンカフェを作ったのだろうが、それしかできることがないというのもよくわかる。
SNSで外に向かっても理解されることはなく、広くバズるのは「ひろゆき」であったり、本当の思想家の居場所がない。
それでもやっぱり東さんの言論は鋭いし、おもしろい。ものすごい頭脳なのである。
でも、東さんだってずっと絶望したままではないだろうから、今後変わってくるのではないだろうか。
そんな対談を公演で忙しいときに寝る前に眺めている。YouTubeでアホな動画を見るのも楽しいけれど、ゲンロンのように骨のあるものを見るのがいい。考えさせてくれるし、新たな考えも吸収できる。
わたし自身、日本のクラシック業界にはちょっぴり絶望しているところがあるから、このままじゃいけないと思っている。別に日本のクラシック界のことをどうこうしようというつもりもないし、自分がやりたいようにやることしかないと思ってはいても混沌としているものだから自分の頭による思考では足りない。
だから東さんの話に興味が湧く。
オーケストラという変容しにくくて、システムが古臭いものでどうやれば「新しい」ことができるのか? クラシック音楽を単に公演するだけではやっていけない。もうそんな時代じゃない。それを支える人は古い世代ばかりで、どんどん寿命が尽きていっている。
そもそも「クラシック」という言葉も悪いんじゃないか、古いんじゃないか。それの令和の時代には適合できないものなんじゃないか?
クラシックの名曲を提供し続けることにわたしは猛烈に疑問を感じている。これだけアーカイブがあって、再生し続けることに意味があるのだろうか? 観客の趣味以上のものを提供できないんじゃないか。
そんなことを日々考えつつ、まだ結論も新たな企画も思いついていないのだけれど、おそらくクラシック音楽はもう古いとは感じる。コロナ前からそれはありつつ、コロナによる社会の変化で一気に加速した。
古臭いクラシックに自分ががんじがらめになっている。社会のフォーマットがこれだけ変わったのに、そこに古臭いものを押し込めるのは型が違いすぎて無理なんじゃないか。
それは小さな絶望である。しかしこれはブラックホールのように吸引力を高める。ものすごく危うい。そこから脱するにはその小さな絶望の元から離れなくてはならない。
求めるのではなく、変化すること。決して理解してもらおうとは思わぬこと。
そんなことを考えている中に東浩紀さんの今現在に至る時代的なプロセスの分析を聞くと、そういうことか、と思う。
こうなってしまったプロセスを知る。であれば、過去のプロセスにはない試みをやるしかない。必然的にそれは新しく、未見聞なものであるはずだから。
そんな葛藤というか、混濁というか、混迷というか、このままじゃ駄目だという積乱雲の真っ只中。
多分、これからクラシック音楽というフォーマットから抜け出ないといけない。ベートーヴェンをやるにしたって、ブラームスをやるにしたってクラシックという言葉を使わない。
きっとクラシックとは決別しなければならくて、それはわかってはいてもその先の真っ白な世界がまだよくわからない。
しかし、自分がクラシックではないと思えることでおそらく視野が開けてくるように思う。
あっけないほどに、そこにあるのは「自由」。
さて、今日はクロネコの営業所に荷物を出しに行ったら、薄汚い受付にはモーツァルトのアイネクがかかっていた。
ああ、美しいな。
と思った。