結月です。
先日、長野県で飼っていた熊に襲われて75歳の男が死んでしまったというニュースを見て、
「こういうのは幸せなんだな、きっと」
と思った。
その熊は山で親熊とはぐれて、まだ猫くらいの大きさの赤ちゃんのときに男に拾われ育てられた。ミルクをあげると「ペッペッ」と音を立てて飲むから名前は「ペッペ」となったのだという。そして20年間、飼育していた。
家族同然のように可愛がっていたようで、同時にその20年で男は年老い、体も悪くし、己の死期も感じていたようである。
ペッペは射殺されたが、男の家族はペッペを埋葬し、恨みもないという。
これは運命の無理心中のようでもあって、男は自分が死んでしまったらペッペは誰が面倒を看るのか心配していたほどであるから、ペッペが運命的に男を襲って死なせ、同時にペッペは射殺され、まるでアニメの「フランダースの犬」のように仲良く天国へ行くようなラストだったのではないか。
もし男が病気で死んでしまったら残された熊は世話をする人を失い悲惨である。その心配を解消させるためには運命は男を襲われなければならず、結果的に一緒に死んだ。
男を襲った後、ペッペは餌用バケツの野菜を食い散らかしていたというから、空腹だったのかもしれない。空腹ゆえに機嫌が悪く、男を襲ったのかもしれない。
その空腹も男が老いて、体も思うように動かず、動くことが億劫になっていたがために餌やりの頻度が落ちていたのかもしれない。
それに襲ったと表現されているが、熊としては襲ったというよりちょっときつめにジャレついた程度だったかもしれない。
うちには猫がいるが、猫でさえ、甘噛みがいつしか少し本気になるとかなり痛い。それが熊となれば激情しなくても人間は致命傷を負う。
ちょうど9月に熊本の熊牧場でたくさんの熊を見たが、その爪は一掻きで大怪我するようなもので、その牙だって猫の比でない。
ともかく、男が襲われた現場を誰も見ていないのだからわからない。ただそれがどうであれ、死期に近づいていた男が可愛がっていた熊によって死に、男を殺したがゆえに射殺されたことに運命的なものを感じるのである。
そしてそこには恨みはなく、男を襲っても愛されて埋葬されたペッペであるのだから、この両者の関係、そしてその結果は幸せと言えるのではないか。
もしこれが人間だったらこうはいかない。
父親殺しは昔からの文学的テーマであるが、赤ん坊の頃から可愛がっていた息子が大きくなってドラ息子になって、グレにグレて、もしくはグレはしないが父親に恨みを持つようになり殺害する。
医者だった父親が息子にも同じ大学の医学部に行かせようと何浪もさせ、それでも合格できずに家に火をつけ父親を殺したという事件が昔あった。
やはり人間となると関係は複雑になる。親の言い分もあるし子の言い分もある。
どうしても恨み辛みが生まれる。
しかし、動物にはそれがない。可愛がっていたなら尚更である。
3年ほど前、うちの飼い猫同士の喧嘩の仲介に入ったわたしは1匹の飼い猫に噛み付かれ、血だらけになった。かなりの怪我で、数カ所皮はめくれ、右腕全体が腫れ上がった。
その晩、悪寒が激しく、翌日に病院へ行き、抗生剤の点滴を2度打ち、殺菌の軟膏を塗りたくられ包帯が巻かれた。
ちょっと仲が悪い猫同士がいるのである。いつもは1階と2階で分けているからそんな惨劇はないのだが、猫の水を換えてやろうとしたときに必ず閉めているドアが半開きだった。そこで2階にいる猫が侵入し、もう1匹に噛み付いたのである。
その結果、わたしも巻き込まれたわけだが、そんな血だらけになっても猫のことは恨みやしない。可愛がっている猫でもあるし、ドアが開いていたのはわたしのミスだし、猫同士が仲が悪ければ仕方がない。
わたしを血だらけにした猫も興奮していただけで、普段は大人しく、寝るときはわたしのお腹に寄り添っている。
動物とはそんなものだから何があっても可愛いものである。
でも、人間はそうはいかない。
きっと人間は素直でないからだろう。
男とペッペの間には愛があったから、このような事件があっても悲惨さを感じない。射殺までしなくていいじゃないかと思いはすれど、それは熊の恐ろしさを知らないお花畑だからだろう。きっと熊など捕獲するのも容易でなく、二次被害が出るのを防ぐには射殺しかないのだろう。
それに射殺されなくてペッペが生きていても男を殺した熊として認知されてしまうし、飼い主がいないとなると飼育も放置されて動物虐待にもなる。
だから、これは死期が迫った男に対してペッペが敢行した美しき無理心中なのである。
それが一番お互いのためによかったのだ。それをペッペが感じ取ったのだ。
そうでなければ、運命の神様がそうさせたのだ。
さて、男は熊に殺されたが、わたしは飼い猫には殺されない。猫にはそこまでの力はないし、猫のほうが寿命が早く尽きる。
わたしは将来、可愛がっている猫たちの死を順番に見届けなくてはならない。今は元気でも必ず猫は死ぬ。
3匹分だから、三度の悲しみ。
三度も辛いことがあるのかと思うと今からでも涙が出てきそうになるが、それも運命。
猫たちはお役目を背負ってわたしのところにやってきたのだから。猫というのはそういう生き物である。
つまり、猫が死ぬときはそのお役目が終わったということで、猫としてはわたしに対してやることはやったよ、と死んでいくのだろう。
おそらくすべての人間も何かお役目があるに違いないのだけれど、人間社会は複雑すぎてそのお役目が見えにくい。ところが猫はそれがわかりやすい。
だから、猫は愛すべきものなのである。