結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

やっと一段落で今年のこと。

【スポンサーリンク】

結月です。

やっと今日、先月の公演の集計を提出が終わり、昨日は決算資料もまとめて提出完了。

とは言っても、それは出したというだけで完全に終わったわけでなく、これから諸々修正したり、再提出したりと作業はある。

しかしながら、資料をまとめ終わったという意味で一段落。膨大な書類をまとめてExcelに入力し、まるで生産的でない面倒なだけの仕事の日々、それが一応終わり。

これをやって何かが生まれるというわけでなく、やったことの整理整頓であり、生産的ではないにせよ、整理整頓することで行った事業がどうであったか数字できっちりと見えてくるからルーズにならないようにという意味で不可欠かなと思う。そう思えるようになったわたしは大人になったものである。

というわけで、やっと今年の「これから」を考えることができる。公演をやるにしても戦略を練る必要があり、時間があるようでない。とりあえず「ジェネオケ」を形にはできたので、今年はそれをどう進めていくか。誕生会は終わって、次は進学を考えるようなものである。

クラシック音楽はオワコンだとわたしは認識しているので、従来型のクラシック音楽的な営業はやるつもりがなく、そもそも「クラシック音楽」という言葉も毛嫌いするようになって、そういうカテゴライズが古臭いように思う。

新しい試みをしようと思っても「クラシック音楽」と認識されてしまって、ハジけたことをやろうとしてもクラシック的に対応されるとおもしろくない。もちろん演奏する音楽はクラシックであるけれど、考えてみればバッハは18世紀前後だし、モーツァルトは18世紀後半、ベートーヴェンは19世紀に入り、ブラームスは19世紀ど真ん中で、マーラーは20世紀に入る。それだけでも300年ものスパンがあるものをクラシック音楽とカテゴライズするのもおかしな気がする。なので、一言で、

「音楽」

でいいんじゃないか。

ともかく、わたしは自分がやっていることを「クラシック」だと思われたくないのである。日本のクラシック音楽界はハッキリ言ってダサい。ダサすぎる。なんであんなにダサいんだ。公演のチラシのデザインだってダサすぎてひどい。デザイン的に新しい試みをしようという気が見当たらない。数十年間も変わっていないし、いくら音を商売にしていると言っても絵的なセンスがなさすぎる。

とは言え、この間のジェネオケのデザインも満足しているわけでなく、もっと絵的に洗練させないとダサい。あれはあれでデザイナーに何度もダメ出しをして行き着いたのであるけれど、もうこれ以上ダメ出しをするとデザイナーのメンタルがもたないんじゃないかと思ったし、それ以上を求めてもデザイナーの実力以上は無理なのはわかっているし、さらに公開期日があるからいつまでも待てない。という事情があってどこかで妥協はする。

これからはひと目見てジェネオケだとわかるデザイン、そういうのを求めたい。そういう意味でいわゆるクラシックのコンサートだよねっていうありきたりなデザインの真逆を行きたいわけで、ギョッとさせなきゃつまらない。クラシックだよねっていうイメージや固定観念をどんどんぶち壊していく。それでいて音楽は真正面からモーツァルトなり、ベートーヴェンをやる。

演奏でも「新しさ」は求めなくてはいけなくて、芸術とは伝統をぶち壊すことで前に進む。懐古主義は禁物だし、伝統が素晴らしいと思うのは大きな間違い。これは演奏者にも徹底して認識してもらいたい。

さらに得てしてクラシックファンは認識が古臭くて、そりゃ高齢者ばかりだからという理由もあるが、懐古主義や伝統がいいと勘違い、というかそこに酔っているのが多いから、そういう層から悪口、誹謗、批判されるようなものをやっていく。

批判されるということはそれを口にする人の認識を否定していることであるから芸術的に成功している証だから。古い感性の人間から称賛されることは芸術的には最悪で、そこに迎合して喜んでしまうと音楽は進歩しない。

だから、できるだけ今の時代の感性を持ち合わせる新しくて、若い観客を多く動員したい。なぜなら、音楽は演奏があり、それを聴いてくれる人がいて成立し、聴いてくれる人の感性に演奏も呼応して進化するからである。

古い観客ばかり相手にしていては音楽は停滞する。プロオケだって会員に高齢者が多いと音楽も古臭くなる。

演奏が進化するには新しくて新鮮な観客が必要なのである。

というわけで、ジェネオケのこれからはできるだけクラシック音楽というダサいイメージとは離れていきたい。たとえ演目がマーラーであっても、その営業活動はクラシック的でないほうがいい。もっと正確に言えば、日本のクラシック音楽業界的でないほうがいい。

クラシック音楽の雑誌も内容がタコツボ化してしまっていて、あれでは新規は増えないし、減り続ける層の中で取り合うだけ。

音楽評論家も音楽のことだけ語るのではなく、もっと今の時代に、今の社会に通じるもの、そこへの接点を求めた音楽という見方ができないかなとも思う。

マニア的な解説も知識としてはおもしろいことはあるけれど、やはり音楽は人とつながるものなのだから、社会へのアプローチがないといけない。

わたしは公演をプロデュースするに当たってそのことを重要に考えていて、何のためにこの公演をやるのかを考える。なぜこの公演が必要なのか。今を生きる人々に何を伝えたいのか。それが中心にあって、だから単に音楽がいいよねっていうただの公演はしない。

そのためには公演が社会につながらなければいけないわけで、そもそも芸術は人の心に深く入り込んでいくものなのだから。それゆえにクラシック音楽が好きという人だけを相手にしていてはタコツボ的趣味の提供にしかならない。それはそれでいいけれど、音楽はもっと社会と関わるべきなのである。

そういうとクラシック音楽が地域の元気のために!とか、心を豊かにする!みたいな抽象的でふわふわして具体性がないようなことを理念にしちゃってるプロオケがいくつもあるけれど、まるで具体性がなく、地域が元気になるとか、心が豊かになるとか意味がわからない。何が一体どうなるのか具体的に説明してほしい。ふわふわしたものに善意的なものを感じるのは古臭くて、90年代までならそれでよかったかもしれない。抽象的なアピールをするのは考えることから逃避しているし、気分でしかない。

だから、ロシアがウクライナに侵攻した途端にウクライナのためのコンサートとか意味がわからないものが続出する。それをやる演奏家もどうかと思う。考えが甘すぎる。遠く離れた日本でコンサートをしたところで戦争は終わらないし、気分でそんなことをやっても何にもならない。その証拠にその手のコンサートは侵攻直後だけで長続きしない。気分でやってるからデモと同じくあっという間に終息する。つまり、その程度しか考えてないということだ。平和をファッションにして音楽はやらないほうがいい。それはものすごく浅はかであるから。戦争というのはもっとえげつなくて、気分で語るようなものでないのだから。

さて、考えることはいろいろあれど、とにかく実行していくのみ。実行していって、その行為を見てもらう。それによって何をやりたいのかが伝わっていく。すぐにはできるものでないかもしれないし、何年もかかるに違いない。一朝一夕にはいかなくとも、試みていく、試みていく、試みていく。試みていくことで軌跡が生まれ、実体が見えてくる。

とにかく気分では音楽をやらないことを肝に銘じる。音楽はその特性上、どうしても気分が大きくなってしまうものであるけれど、それではBGMでしかない。そんな時代は終わっているし、もっと自分の音楽を言葉で語れなければ駄目だ。気分でやると言語化できない。言語化できないということは音楽を深部まで考えられていないということだから。

音楽をやっていながら、音楽を超えたもの。そういうことを目指していく。

【スポンサーリンク】