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老後って怖いよね。

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結月でございます。

よくありがちな「老後は年金だけで足りるのか?」みたいな記事を読んでしまって、それはいつものありきたりな内容で、要するに人の生き方なんて統一されるものでないから老後にいくら必要かなんて答えられるわけはなく、結局お茶を濁して終わりという記事だった。

同じ1万円でも東京に住むのと地方の田舎に住むのとではその価値が違う。東京で5万円の家賃だとボロいワンルームが精一杯だろうけど、田舎だとそこそこ大きい家に住める。

ちなみに栃木に来て早4年というわたしはスペック都会人であるから田舎的なものが苦手で、都会の雑踏の中で生き生きとする体質。だから、東京へ行くと自分が活性化されているのがわかるのだが、では東京に再び戻って仕事をするか?となれば、それはお断りである。

東京で例えば20万円の家賃のマンションを見ても、あまりの窮屈さに20万円の価値を感じない。それに一等地に住んだところで家でやることは寝るとか飯を食うとかネットを眺めるとかその程度であるから、その行いの中身は一等地であろうがなかろうが関係がない。

昔、東銀座の一等地に住んでいたわたし。結美堂が銀座3丁目であったからママチャリで通っていた。

しかし、そこでの生活がその家賃に見合っていたかとなると、

「ほぼ無駄」

という結論で、ズバリ言ってそんなところに住んでいいことなんてなかったのである。

もちろん東京が拠点でなければならない仕事だと仕方がないが、オンラインである程度のことができるようになって、今のわたしには東京に住むことが必要なくなってしまった。

今の栃木で結美堂としている場所は十分すぎるほどの広さがあるし、要らないけど庭まであり、駐車場も屋根付きで車も傷まず、目の前には大きな栗の木があってうるさいほど鳥が集まってきて鳴いている。そしてコストはかなり低い。

というのに慣れてしまって、高い家賃で窮屈な東京に住むのは心境として無理なのである。

ただ、都会が好きだから都会的に生きていたいという気持ちがありつつ、でもそれは銀座で15年いたからほとんどやり尽くしてしまって東京に住んでいたとしても何もせず直帰。仕事が終わればすぐに帰るというのは銀座にいる頃からそうであったから。

とまあ、そんなわけで東京で老後を過ごすとなるとそれは金銭的に大変だろうなと思う。

持ち家があったとしてもそれを数千万で手に入れるのなら、不動産が安い田舎に住むことでその数千万を浮かせ、生活費に使えば充実できそう。持ち家があるけど、日々の生活はキツキツな東京よりはいいのではないか。

そう考えられるのも時代が進んで価値観が変わってきたからで、大昔のようにAmazonもなければネットもない時代なら東京のほうが便利で、田舎は不便極まりなかった。でも今は生活自体は東京も田舎も得られるものは変わりない。

違うのは仕事であって、やはり田舎は程度の低い仕事の割合が高い。エキサイティングな仕事も少ないし、サービスも悪い。

であるからして、現役であるなら雇われであるなら東京、自営で生きていけるなら田舎でもO Kといったところだろうか。

ところが老後となると仕事が関係なくなる。

年金暮らしとなると、毎日やることがないまま過ごしている老人は多い。老後も自分の生き方で仕事ができている人の割合は著しく低い。

「老後は年金だけで足りるのか?」という問題は要するに仕事をしないで年金だけの老後を想定した人の話なのである。

しかし、金銭の問題もあるが、もっと恐ろしいのは毎日やることがない日々である。わたしはこれを想像しただけで目眩がする。

毎日テレビを見て過ごすだけ。たまに散歩。その程度。

そんな生活をするなら自殺したくなるが、でもそういう生活はやってみると何も考えなくていいから楽なのだろうか?

それがどういうものなのかはそういう年齢になってみないとわからない。

なぜなら、人間は年を重ねることで変化するから今は嫌だと思っても、その頃になると嫌でもないかもしれない。

こんなわたしだって昔はお酒を大量に飲んでいてそれでも平気だったのが、今は飲むと体がキツくて仮死状態になる。

お酒がおいしいと思わなくなったのは何年も前からだが、今は飲むのがちょっと億劫になっている。それでも気分転換、というかONーOFFのためにちょっと飲むのであるが、グロッキーになって後悔する。

いつだったか医学部生に、

「アルコールって、毒ですからね〜」

と、言われて、わたしはお酒が毒という表現がなされるのに違和感があった。いいお酒は香りもよろしく、味わいも深い。そして料理に合わせて楽しむ。それが毒という表現は違うと思った。

しかし、相手は医学部生だから化学的見地である。アルコールという成分は人間の肉体にとっては毒というのが医学である。

それが今は飲むと仮死状態になることが多くなって、そのキツさ、せいぜい2時間ほどなのだけれど、体がキツいというのは毒を摂取しているからだと認識できるようになった。

とまあ、そんなふうに人間は肉体の変化に伴って考え方が変わるものである。

であるからして、わたしが70歳になったときは今とは違う考えでいるに違いない。

とはいえ、毎日やることがない老後は強烈な嫌悪がある。それは三島由紀夫のことがわかり始めるものである。

醜い老体を晒すのであれば、自らの手でそうならぬうちに美しく自決する。

と、わたしは自決するつもりはないが、気持ちとしてはわかる。

しかし、自決しないために年を重ねてもやることがある生き方を心得て過ごさなければならない。

有名で若い時に活躍した人が老人になってヨボヨボになった姿を見るのは辛い。

そういえば、指揮者の小澤征爾がそんな姿でサイトウキネンの指揮をした映像を見たが、ああいうのはどうなんだろう。ほとんど指揮になっていないし、若い頃の姿がむしろ思い起こされて辛い。しかし、それでも演奏は熱くなるのは、衰えても小澤征爾という存在への演奏者の想いがあるからだろう。

そして一方で、まだ元気にやれるのに引退を決めている井上道義みたいな人もいる。自分の老いたときの酷さを見せるべきではないという考えらしい。

というようにいろんな生き方があるわけだが、意外と自分の老いたときのことを想像しながら現役時代を生きている人は少ないのではないか。

それは忙しすぎて考えられないのかもしれない。すると定年で一気に老ける。

だから趣味を持ったほうがいいとも聞くが、趣味だといけない。趣味は責任がないから社会性がない。ないよりマシだけれど、趣味だと老ける。

であるからして、年を取っても仕事ができる、それも雇われでなく自分で仕事を生み出せる状態にするのがいい。そのためには現役の頃から心構えが必要で、それがないとできない。

と、一日に一度は自分の死を考えるわたしは何もやることがなく毎日を過ごす老後なるものが恐怖なのである。それが嫌でたまらないからそうならないように今から考えて生きている。

雇われた忙しさがないから幸い、そんなことを考えることができる。

ほんの少しだけ経験したことがあるサラリーマン生活を思い起こす。とてもじゃないが、自分の死のことや老後の生き方なんて考える余裕はない。会社員は忙しいし、忙しくなくとも会社の中での仕事をし、会社の中の話題で生きてしまうからそんなことを考える方向にはいかない。

しかし、先のことはどうなるかわからないものである。

10年前に日本がこんな状態になるとは思わなかった。まさかコロナが流行するなんて想定外だし、20年前にはもっとわからなかった。

経済のことなどは朧げに予測はできる。でもそれ以外の要素はたくさんある。

もっといえば、自分のこともわからない。老後のことを考えているのに老後に至らず事故や病気で死ぬかもしれない。

であるから、結局のところ、日々を一生懸命、そしてやりたいことはやってしまう生き方でないといけないわけだ。迷っていたら人生が終わってしまう。

意外と人間は死ぬのが早い。寿命は伸びていてもやっぱり早い。こんなものか、という程度で終わってしまう。

さて、年を重ねることが宿命である人間にとって最も重要なのは頭ではなく、筋肉である。頭もボケない努力が必要であるが、筋肉の衰えは老化を早める。

第一に筋肉。第二に頭。

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