結月でございます。
元号が変わる時、それは大晦日と元旦みたいなものなんでしょうね。
でもそれが今回が例外で、天皇陛下が退位するから。つまり生きているから。
昭和の時は崩御であり、新しい元号を喜べるムードではなく、まるで東日本大震災の時のようにテレビはCMを自粛し、アホなバラエティ番組も放映されなかった。
ところが今回は生きている間のものだから、こうした明るい雰囲気になっている。
新しい令和がどんな時代になるかは終わってみないと総括できないとはいえ、日本の経済状況などを踏まえると「冷たい時代」になると予測する。
全体的に見て、冷たい現実の中で生きる時代なのではないか。
しかし、個人としてはいくらでも楽しめる時代にはすでになっているので、楽しめるひととそうでないひとが二分化される。
時代の変化を取り入れられずに、古いルールやモラルなどを踏襲すると楽しめなくて冷たい社会を生きるのではないでしょうか。
社会というのは個人的な見え方がそれぞれで異なるので、なかなかひとつには絞れない。
政治的な運動は一番わかりやすく、今の政治を悲観するなら悲観にしか見えないし、グッドだと思っているひとにとってはグッドな政治になる。
女性の権利にしたって、それをフェミニズムで古臭いまま捉えているひとにとってはまだまだ悲観する内容で、今年の東大で行われた祝辞みたいな話になるけれど、わたしは、
「そんなに悪いか、今の時代!?」
って思ってる。
ある程度の不公平はあっても、じゃあそんなに男が恵まれてるのかな?
時代錯誤なインテリが過敏すぎるだけなのではないか。インテリが思うほど、世の中の女性がそんなに不便に思うほどひどい時代だろうか?
物事はできる限りニュートラルに見なければ、本当の姿はわからない。偏っては駄目なんだな。
自分が悲劇的な生き方をしていると全てが悲劇的に見えるだけで、本当の世界は実はそうでもない。
だから悲劇にしているのは自分自身に他ならず、ちょっとした考え方で悲劇は喜劇に変わる。
ブラック企業に勤めていて、世の中がブラックに思えても本当はそんなことあるはずもなく、単にその会社を辞めれば世の中がブラックに見えることなどなくなる。
自分の狭い視野の中に埋没してしまうからいけないのであって、ニュートラルに広く見渡せば、まあ今の日本なんてそんなに悪くはない。
経済という狭い視点で見れば良くなることはなくても、全体として見れば幸せであるという視点はいくらでもある。
わたしは自分が幸せだとか不幸だとか一切考えない。不幸や不満は何かとの比較によって生まれるので、他人の何かとは比較しないから不幸にはならない。
そもそも他人に興味がないから。
興味があるのはこの紛れもない自分が何ができるかであって、他人が何をしたとか、何を持っているとか興味がない。だから比較が生まれない。故に不幸せな気分にならない。
仮に何かすごくうれしいことがあっても、とりわけ幸せには紐づける気がない。たまたまいいことがあっただけで、たとえそれが自分の力でなし得たものであったとしてもそんな達成感なんて翌日までしか持続しないから。
強いて言えば、2歳の愛娘が腕枕で眠っている時、そして可愛がっている猫たちと一緒に寝たりしている時。それらが幸せだなって感じる。
でも、2歳児は毎年大きくなるし、いつまでも腕枕で寝ていることはないし、猫たちだっていつしか寿命は尽きる。
だからそこには執着しないようにしていて、何事もいつかは失われるものだと自覚している。
そのせいもあって、大きなものには幸せを求めないことにしていて、ふと、身近にあったものに「いいな」って思えればそれだけでいい。
可もなく不可もなくでいいんじゃないか。
その中ですごいことがあっても、まあ、そんなものかと軽く流す。
それは決して無気力というわけでなく、不断の努力を重ねながら、そして何かを得たとしても執着しないということ。
不幸そうなひとを見ると、例外なく執着がネバネバと強すぎるから、そういうのを見るとね、サラッとしているほうがいいわけさ。
こうしている間にも膝の上に猫がくつろいでいて、わたしは幸せを感じている。