結月でございます。
8月から続く喘息も終息が見えてきた感じで、
「やれやれ、やっとYouTubeの動画が撮れるかな」
なんて思っている。
咳がひどすぎて、ちょっと喉って喋ると咳き込んでしまうため、随分動画ができなかった。
YouTubeをやってないと、栃木に来てしまったわたしは着物を着る機会がなく、それでは着付けを教える立場として説得力もないし、自分でも寂しいから、YouTubeはそういう意味でも自分のためでもある。
話すネタはスマホのネタ帳に書き込んでるから幾つもあるのだけれど、神社のことを話したいと思っている。
神社はどういうものかってことをほとんどの人が知らないまま、ただ拝んでいるからで、ちょっと霊的な話をしようかなと。
ちなみにちょっとだけ言うと、神様なんて、あなたを助けないからね。これは大事なポイント。
さて、フランスのシャンソン歌手ジュリエット・グリコが死去というニュース
まあ、93歳だからね。何年前だったか忘れたけれど、ジュリエット・グレコが日本に来るというので、わたしはこのチャンスはラストだと思ってチケットを買って観に行ったよ。
そこそこ高いチケットで、それなのに公演時間はすごく短かった。年齢を考えたらそれで精一杯なのはわかったし、それ以前に歌がすごすぎて、短い時間でも満足というか、満足を通り越してこちらが失神しそうなほど強烈だった。
正直、美輪明宏さんがちっぽけに思えるほどで、そりゃシャンソンの本家本物は違うと圧倒された。
いわゆる「シャンソン」とは日本ではジュリエット・グレコが歌うようなレパートリーのことを言う。
フランスでは単に歌という意味だし、今のポップスだってフランスではシャンソン。
要は20世紀初頭から第二次大戦後10年くらいまでの音楽かな、シャンソンの黄金期は。
日本では平成すら終わって令和なのだから、ジュリエット・グレコが死んでもそれは自然だなと思える。
でも、歌い切って死んだという感じで、カッコいいよね。
寿命で死ぬのがベストだと思うけれど、やりたいこと、自分がやるべきことを寿命で死ぬ直前までやって死ぬのがいい。
これはそもそもやりたいことがない凡人にはできないことで、死の達成感が違うよ。
本来、死とは達成感だから、いいことなんだよね。この世に生まれてからこれだけのことをやったよ!という達成感を味わえるのが死なんだよ。
それだからこそ、自殺とか事故死っていうのは嫌なもので、後悔ばかりになってしまう。
わたしも可愛がっている3匹の愛猫がちょっと老けてきたと感じたり、愛娘が来年にはもう4歳になったりすると、一層、死のことは考える。
わたしは死に関してはすでに一定の認識は持っている。だからずっと前から死のことは考えてきたとはいえ、猫や愛娘のことを考えると死というものはリアリティを帯びてくる。
猫たちとはあと何年一緒にいることができて、愛娘が大人になってどんな仕事をして、どんな実績を残すのかちゃんと見たいなとかさ。
猫や愛娘のことはともかく、わたし自身がまだやりたいことをやりきれてないし、思い描いているプランも実現させちゃいない。
だから、猫のことを心配しつつ、愛娘に教育を与えつつ、自分のことをちゃんとやらなきゃねってことで。
死があるから人間は頑張れる。
猫だってその死があるから可愛がれる。死なないんだったら、どうでもいいって思っちゃうよ。
死とは究極的な将来であり、そこに向かって自分がどうやっていくかが生きる価値だから、わたしは過去のことばかり思い出している人や、過去の不幸を忘れられずにいる人とは付き合いたくないんだよ。
変えられないからさ、過去は。変えられないものに酔いしれたり、悔やんだりしたりするのは時間の無駄で、そんな他人の無駄には付き合ってられねーよということ。
なので、未来志向の人に会いたいし、話をしたいし、一緒に何かやりたいよね。
だって未来の塊の3歳児と暮らしていると、未来に向かって生きることってすばらしいんだな!って実感できるんだよ。