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ゴダールの安楽死から考えること

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結月でございます。

フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールが安楽死し、その現場を取材した記事が文春オンラインにあったので購入して読んでみた。

ゴダールの安楽死はその情報が少なく、どういう状態だったかがあまり知らされていなかった。その瞬間に関わった人々がその詳細については語らないと決めていて沈黙していたからのようだ。

しかし、その後をわかる限り取材したのが今回の記事で、どうやらゴダールは致命的な病はなかったが、複合疾患で身体中が痛み、体を動かすのも困難であったらしい。

そして致死薬を飲む時はためらいもなかったようで、死ぬことに満足であった。

わたしは一日に一度は自分が死ぬときのこと、どのように死ぬか、どんな場所で死ぬのかを考える「死ぬフェチ」であるけれど、それは死ぬときに後悔を残しながら死ぬのが嫌だから、今、こうして生きていることを充実させようと思う逆算なのである。

自分が生きている間にどれだけのことができるか、これは日々考える。新結成したオーケストラで音楽をやってみようという試みももちろん後悔しない死を望むからこそであり、オケを立ち上げるチャンスがあったときにビビってやらなかったという後悔が死の直前に感じられたら死にきれない。

たとえ、この試みがうまくいかなくとも、やってうまくいかなかったならば後悔はない。思い切りやってみて駄目だったらそれはそういうものだと割り切れる。

もちろん、ダラダラと毎日を過ごそうと思えばできる。差し迫ったリスクはないかもしれない。面倒もないかもしれない。でもそれじゃ、生きている意味があまりない。

わたしが思う最悪な老後は、やることがなくて毎日にテレビを眺めているとか、朝からスーパーにカートを押しながら背骨を曲げながらカートを押しているような姿である。そういうのは勘弁したい。

であるからして、常に未来のほうを向きながら、新しい試みをやる。過去は終わったものでやり直しができるものでないから考えない。今、これから何ができるかを考え、行動していきたいのである。

しかし、人間には寿命があるから今生ではリミットがある。終わりがある。あの世はあるにせよ、この現世では時間的に終わりがある。

5歳の愛娘を眺めているとその先があまりにも広大で可能性に満ち溢れているが、わたしはまだ先は長いとはいえ、カウントダウンである。愛娘が中年になった頃の話をする。

「アタシ、生きてるかすごくビミョー。多分、その頃には死んでる。生きてても体が動くかわかんない」

そんな会話をクルマの中でする。

今は小さくて可愛い愛娘とも順調に行ってもあと数十年しか顔を合わせることはできない。

過去20年を振り返るとあっという間だった気がする。するとあと20年もすぐに違いない。

思えば、ジェネオケはまだ始めたばかりだけれど、10年やれれば御の字だと思っている。10年後の日本の状況を考えると、クラシック音楽はそんなに生き残れない、というかニーズは今以上に激減して、少子高齢化がさらに進んで公演どころではないだろうから。

それにコンサートという大変な事業を10年もやり続けられるかはわからない。

10年後、わたしは年齢的にはまだまだ現役で、病気にさえならなければ問題はない。でも、そんなことを言っているうちに次の10年が来る。

思うほど時間はないものなのである。一生懸命を二乗したって足りないかもしれない。

そんなことを考えながら、毎日を生きている。

しかし、これまでの自分を思い返してもまるで満足することがない。この程度か…とも思う。いろいろやってきたはずなのにとりわけ達成感はない。それどころか、何もできてないなとすら思う。

こういうのは食欲と同じで、食べ終わった直後は満足感があれど、翌日になれば空腹感が出てきて昨日の満足感を忘れてしまうことに似ている。

生きている以上、満足してもすぐに腹が減る。高校受験に成功して喜んでも、いつしか大学受験に追われるようになり、卒業する頃には大学に入ったときの喜びなどなく、社会人としての不安を感じる。そのようなものなのだろう。

しかしそれはまだ先があるからであり、いよいよ先がない、あと数年しか生きられないだろうという年齢になると最後の満足が得られるかどうかになってくる。

先がない事実から過去を精算するときに後悔があるとこれは精神的に辛い。そもそも何も考えない人だって多いかもしれないが、少なくともわたしは考える。

ゴダールの記事に安楽死を選んだイギリスの老婦人の話があった。

「満足のいく人生を送ってこなかったら、もう少し長生きしようと思うかもしれない」

なるほど確かにそうかもしれない。100まで生きたいと冗談で言うようだと、それは自分の人生に満足していない証拠とも言える。

最期を意識したとき、自分の生き様に満足できていれば、体が不自由になったり、介護がなければ生活ができなくなる状態になれば、それ以上生きたいとは思わないものなのだろう。

きっとゴダールもあれだけの映画を撮ってきて、そこには満足していて、そして頭脳では映画はまだ撮れても体が動かない、そんな現実から安楽死を選んだのは理解できる。

日本では安楽死はまだ認められていないが、もし自分も体が動かなくなって、今はあんなに可愛らしい愛娘が大人になった頃、多大な負担をかけるのなら満足した安楽死を望みたいとも思う。

もうやり切ったんだから、体が不自由じゃやることもない。でも満足している。であるなら、サッと死ぬのがいい。

人間なんてそう望んだように死ねないもので、面倒なく死ぬのは稀である。

今は医療も発達しているから、昔ならパッと死んでいたのがズルズル生きてしまう。死を近くに感じながらなかなか死なない「しぶとさ」が自分にあると自分を呪いたくなる。

そこに自分の人生への満足があるならまだしも、それがないまま過ごして来た人間はまだ生きているのに地縛霊みたいなものじゃないか。

そんなわけで、今日も自分の死について考えた。

考えたって考えた通りには行きやしない。

ただ考えることで、明日、また死ぬときに後悔がないように生きようと思って頑張れる。

今の自分の行為が、最期のときの満足への蓄積になる材料になっているか。

そんな死生観がわたしにあるから、ジェネオケのコンセプトは、

「生きてることに、歓喜しよう」

なのである。

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