結月でございます。
死ぬときのことが楽しみで仕方がないわたし。だから、一日に一度は自分が死ぬときはどんなのだろうと考える。
そんなこと考えたところでそのときになってみなければわからないというのに考えてしまうのは、それを考えることが楽しいから。
シミュレーションというわけでなく、こんな死に方がいいとか、死ぬときはこんな気持ちでいられるのがいいと想像する。
自分が死ぬときのことを考えるのはすなわち、その死にたどり着くまでの道のりを考えるわけで、将来のことを考えていると言える。
わたしはもはやどうすることもできない過去のことは一切考えず、思い出すことはあってもそこに執着しないし、後悔はしない。もちろん「ああしておけばよかった」と思うことは多々あれど、それも今から変えられるものでないから後悔の対象にはならない。ただ「馬鹿だった」と思うだけ。
わたしが死ぬことを考えるのが好きなのは、昔、ショーペンハウアーを読んだからとか、三島由紀夫が好きだとか、まあそんな哲学的、文学的理由があるのだろう。
あとは芸術というものが死を材料にしていることが多く、死を感じることで生を見出し、そこに創作が生まれる。
芸術や文化に関心がない実業家タイプの人であれば、きっと毎日を楽しく、一生懸命やっとけばいいから自分が死ぬような先のことは考えない、今だよ、今!今が大事!と言うだろう。
わたしも今が大事!派であって、そういう要素が強いのだけれど、やっぱり元来が文化芸術派だから死ぬことフェチ。
寿命からすると、わたしが死ぬのはまだまだ先であり、死ぬときのことを考えるなんてかなりのオマセさんである。そういうのは70歳になったときに考えればよろしい。そういう声が聞こえてきそうである。
ところでわたしが考える死ぬことは、銀行の通帳やその暗証番号をノートに書き記してまとめておくとかそういう実務的なことでない。遺書を残して公証役場で手続きしておくとか、もちろんそれも残される身にとっては大変ありがたいことであるが、そういった事務的な処理は数日あればできる。
そうではなくて、死を迎えるまでに自分がどんな生き様をして、どんなことを残せて、どんな体験ができて、どのような満足を得た上で死ねるかということ。
だから、これは寿命が間近になってからでは間に合わない。まだまだ寿命が残っているうちにコーディネートしておかないといけないのである。
大枠となる生き様が決まっていないと何も進まない。それを決めた上で、今を大事にして生きる。今の積み重ねが歴史になるから今を疎かにしてはいけない。
さて、どんな死に方になるかはわからないが、寝たきりで動けないのは嫌だと思う。
寝たきりになると一人で生きていけないから人の手を借りなければならない。そうすると、自分の自由がなくなる。そんな自由がない生き方は耐えがたい。
となると、足腰は死ぬまで鍛えておかねばならない。今年から始めたエアロバイクは死ぬまで続けよう。そして山登りも死ぬまで続けよう。
人間は歩けなくなると、非常に迷惑な存在になるものだから。
それからボケないようにしなければならない。ボケるのも迷惑であるし、自分で意思決定をして行動することができないとなると苦痛であるが、ボケるとその苦痛さえわからない。
であるかして、死ぬまで頭はフル回転で使っている状態にする。そのためには仕事を死ぬまで続けることに限る。
そんな肉体的なことを考えるだけで、どのように生きていけばいいかが見えてくる。
あとは中国のタクラマカン砂漠に遺る楼蘭へ行かねばならない。ここには絶対に行く。楼蘭に行かないで死ぬことはできない。10年以内に行くことを目標にする。
行こうと思えば行けなくはないが、愛娘はまだ小さいし、猫もいるしでまだ動けない。それにこれからやることがあるからちょっとまだ早い。ある程度の成果を上げてから本格的に行く準備をする。
と、楼蘭を想うだけで向こう10年の生き方は決まってくる。楼蘭に満足して行くには何を、どれくらいやらなければならないかが見えるからこれからを頑張れる。
しかし、得てして思うような結果にならないものだから、軌道修正しながら進み、10年以内が12年になるかもしれず、それとも8年になるかもしれない。
でも、楼蘭に行けたとしたらその経験は死ぬときの満足の材料になる。
どこで死ぬのがいいか、そんなことも思い描く。奥日光に小屋を建てて最期を迎えたいとか考える。
ところがこれも思い通りにはいかないもので、東京の病院かもしれない。
とは言え、いよいよ死ぬというとき、人間が幸せを感じられるかはこの世に生まれてから死に至るまでの日々の中にどれだけの感動があったかによる。これはほんと、最高だったなだとか、感動してたまらなかったよなだとか、そんな経験の記憶。それがないと人間は最期に幸せになれない。
わたしはパリでの思い出、そしてサントリーホールでコンサートをやって、さらにモーツァルトのレクイエムとアヴェ・ヴェルム・コルプスまでやった感動があって、それらは間違いなく死ぬ直前に思い返される記憶。
それだけでも「我が人生、悔いなし!」な経験だけれど、人間は欲張りだからまだ寿命があるからもうちょっと感動の貯蓄を増やそうと思う。ここには楼蘭に行ったことを加えたい。
だからこそ、自分が死ぬときを考えることが楽しいのである。
そうすると、今が楽しくなってくる。
こうした楽しさは自分でやったこと限定であり、人にやってもらったことなど感動は生まれない。100%自分で生きなければ、晴々しく死ねやしない。
しかしそう思えば、実業家タイプみたいに先のことなど考えないで、「今」に対して熱くなるのがいいのだろう。結果的に幸せに死ねる。
芸術家だって、創作の最中に寿命を迎えるのが最も幸せな死に方だ。
であるなら、モーツァルトはレクイエムを作曲しながら死んでしまったからよかったのだろう。完成できず、最中であったからよかった。普通に考えるなら完成させられなかったことが気の毒に思えるが、芸術は完結するより現役の真っ最中で死ぬのがいい。
人間はやりたいこともなく、ダラダラ生きることが実は辛い。朝、スーパに行くと、ヨボヨボの高齢者がカートを押しながら惣菜コーナーからコロッケを取り出すのを見ると痛々しい気分になる。あれは嫌だなと思う。あんなふうになりたくない。
自分が死ぬときのことを考えるのは、シナリオを書いているような楽しさがある。生きていることなんて映画みたいなもので、そうであるならおもしろい映画がいい。朝からコロッケを買いに来る老人の映画がおもしろいわけがない。
ただ、そんな老人のことを否定はしない。それはそれでその人の映画だから。
でも、わたし自身は自分の映画がそんなものになるのが嫌なだけ。