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芸術は長く、人生は短い。

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結月です。

「芸術は長く、人生は短し」という言葉がある。

この言葉を初めて聞いたのは確か中学生の頃で、父親からだった。ボードレールの言葉だと聞いたがそれは間違いで、古代ギリシアのヒポクラテスの言葉をもじったもののようである。

おかげでわたしはずっとボードレールだと思っていたのだが、しかしボードレールの『悪の華』やエッセーでもしかすると「芸術は長く、人生は短し」を引用されていたような気がするがはっきりした記憶でない。

この言葉を中学生のわたしは理解できなかったが、最近ものすごく実感する。最近でなくここ数年前くらいからかもしれない。でも最近よく「芸術は長く、人生は短し」を切実に感じる。

それは公演をやっているからで、新しいオーケストラを立ち上げたが、オーケストラで音楽を継続していくことは長い時間が必要で、小さなことを積み重ねて年輪のようにしていくプロセスがあることを知る。

さらにそこで演奏される曲はモーツァルトなら200年以上も前だし、ベートーヴェンだって200年は経っている。12月7日に行う公演、神尾真由子「四季四季」ではヴィヴァルディをやるが、それは300年も前の音楽。さらにコレルリの合奏協奏曲はもっと古くて300年以上前のものとなる。

そんな昔に作曲された曲を21世紀の奏者が演奏する。そして今後もヴィヴァルディやモーツァルト、ベートーヴェンは演奏され続けていくだろう。

だから芸術は長い。

200年も300年もやってきたなら、もういいじゃないかと思うのに新たな演奏は生まれていく。ジェネオケの第九だって、大植英次さんが唯一無二の演奏を導いてくれるから後にも先にもない演奏になる。

特に日本では第九はうんざりするほどやってきているのに大植さんみたいな芸術家が唯一無二で新しさを更新していく。

やはり芸術は長い。

そんな長いスケールから見ると、ジェネオケというちっぽけさ。つまり人生は短い。やれることは限られている。わたしが寿命が尽きるまでジェネオケをしたとしてもその年数は高が知れている。それどころか寿命までできるわけもなく、そんな長くはやれやしない。

誰かが引き継いだとしても人の生は短い。活動できるのは数十年ほどである。

どれだけ頑張っても芸術の長さには敵わない。

その事実を身にしみて感じる。

そういう年になったせいもある。昔から自分の死については考えていたが、そろそろリアルに見えてくる。残りをカウントするようなモード。その残りで何ができるかを具体的に考え出す。薄々でなくはっきりと考えるようになる。

それは中学生にはわからないことなのである。先が長すぎて見えないから。だから「芸術は長く」はなんとなくわかっても「人生は短い」はリアリティを持てない。若年だと人生は長いものだから。

ジェネオケメンバーは積極的に若い世代を取り入れた。だから、ほとんどのメンバーは「芸術は長く、人生は短し」をリアリティを持って感じられないだろう。

わたしが伸び代のある人たちで将来を感じさせる音楽を作りたかったからそれでいいのである。若いのに「人生は短し」を感じるようではいけない。

だから、「芸術は長く、人生は短し」をズシリと重く感じるのはわたしだけでいいのである。

でも、フレッシュなジェネオケメンバーもあと10年、20年もすれば次第に「芸術は長く、人生は短し」を知識でなく、体感で得られるようになるに違いない。

そうやって人間の認識は進んでいく。

ジェネオケをどこまでやるのか当事者のわたしですらわからないが、オーケストラを作っていくのは長い作業である。

まだジェネオケは音も出したことがない段階で、その産声が「第九」である。

何事も立ち上げたばかりのものは知名度がゼロであり、ないない尽くしのスタート。そこから少しずつ積み上げていくことになる。そのプロセスと時間を考えても「芸術は長」い。

とはいえ、今はネットの時代だから情報の拡散は昔より早い。だからそこまで長いものでないかもしれない。

でも、公演をやる作業は重いものだから、芸術は長いことは変わりそうにない。

芸術に完成形はないのである。常に変化し続け、到達点がない。だからこそ続く。

そんな長く、変化し続ける大いなるものの中で、自分は小さな細胞なのだ。それはわたしだけでなく、ジェネオケメンバーひとりひとりもそうで、長い芸術の中でひとつの公演を行い、無限の芸術の歴史の中の細胞のひとつになる。

芸術のスケールが大きすぎて、それは些細なことかもしれない。

宇宙に比して人間は葦だと言ったパスカルのようなものである。

しかし、パスカルは人間はただの葦ではなく、「考える葦」だと言った。存在としては小さなものかもしれないが、思考する存在としては偉大なものである。

芸術も同じで、芸術は無限ほど長いものであるが、その中で一枚の絵を描くこと、一曲の音楽を奏でること、その行為は無限から見れば小さいが尊厳がある。各々の人生は短いけれど、それが連なり、集まり、続いていくことで芸術は長くなる。

ちっぽけだなとは感じる。これだけ苦労して音楽をやっても芸術の長さからすればちっぽけな行いだ。

しかし、普通なら自分の小ささを自覚すると絶望しがちだが、芸術に関しては天空の星空を眺めるように、その何百光年も先にある星々を見ることに絶望しないように自分の小ささ、人生の短さには卑屈にならない。

どんな大芸術家も「自分がやれることをやった」とその生を終える。ただそれだけである。

だが、正直に言うと、寂しさはある。

いくらやってもこれだけしか残せないんだなという寂しさ。

その寂しさが、

「芸術は長く、人生は短し」

と感じさせるのである。

自分ができることが具体的に見えてくる。残りの時間は少ないわけでないが、そこまで多くもない事実。

そもそも人間はできることは限られている。

芸術とは夜空の遠い星を眺めるようなもの。

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