結月でございます。
人間は得てして見たいものを見たいようにしか見ない。であるからして、ひとつの事象であるはずなのに見え方が違っていて、一方は好きだという人がいるのに、もう一方は嫌いという人がいたりする。
好き嫌い以上に解釈となると人の数だけ解釈があるようにもなってきて混沌としてくる。
さらに現物を見たことがない人の想像と思い込みが混入すると、
「もうメチャクチャ」
という事態になってきて、メチャクチャなのにそれが平然とまかり通ったりもする。
芥川龍之介の『藪の中』の様相で、「真実はひとつ。解釈は無数」というのが人間社会である。
さて、メディアにたくさん出る人はメディアによって作り上げられたイメージが強い。
テレビなんかだと、その役割を任されたりして、キレ芸であったり、同情系であったりと予め演出をされてしまう。そうやって番組は作られていくのであるが、気の毒なのはテレビでの姿は虚像ということで、実際の姿とは変えられていること。
視聴者は会ったこともない人をテレビなどメディアに演出された姿しか見ることができず、嘘であることを吟味しない。
テレビに出るような人でなくとも、立場がある人はその立場のために振るわなければならないシーンが多くなるから、実際の人間像とはかけ離れる。
とまあ、人は会ってみなくてはわからない、というのがわたしの考えで、会ってみると会う前のイメージと違うことが少なくない。
会ってみてがっかりしたこともあれば、会ってみて想像していたよりもいい人だった場合もある。
会ってみてがっかりというのも難しい話で、なぜなら人間は一度だけ会ったくらいでは打ち解けない場合もあり、何度も会ってようやく心が開いてきてその人の本当の姿が見てくる。すると、マイナスの印象が次第にプラスに変わってくる。しかし、無論、その反対もあって、最初はいい人だと思っていたのにだんだん性格が悪いことに気付かされたりすることだってある。
だから、会ってみなければわからないし、会ってみてある程度付き合ってみないとわからないこともある。
長い同棲期間のない結婚は一緒に生活してみて、相手の最悪ぶりが見えてきたりすることが多い。
あとは噂話を信じるか信じないか。
ある人が誰かのことを悪く言っていいる。それを真に受けるか受けないか。
人には相性があるから、その人は誰かとは合わず、悪い印象しかない。しかし、その印象はあくまでその人だけのものであって、共通性には乏しい。
その悪評があまりにも数多いものとなれば信憑性は高まるかもしれないが、評判というのも怪しくて、それを語る独善的な思い込みが入るものである。
ところでわたしがメディアを通した一方的なイメージでなんだか嫌な女だなと思っていたのが、勝間和代さんである。
勝間さんがちょうどブレイクしていたときで、なんか鼻持ちならないというか、好きでなかった。本人もブレイク中だったから調子に乗っていたというのはあるかもしれない。
でも、もう随分前だが、共通の友達に勝間さんを紹介してもらい少しだけ話したのだが、勝間さんはとてもいい人で優しくて、当時のメディアのイメージとはかなり違った。
バイクが好きで、家庭料理が上手で、その料理も頂いたがおいしかった。
実際に会った印象は、好奇心がいろいろあっておもしろく、正直な人だということ。
今までメディアを通して勝手なイメージを抱いていた自分が駄目だと思った。
とまあ、そんなことは勝間さん以外にも多々あって、わたしはどんな人にも好き嫌いを会う前から抱かないようにした。
そして、会ってみて、
「猛烈に好き」
と思う人については猛烈に好きなままでいて、反対に「猛烈に嫌い」という感情はなくした。嫌いと思うことはなくなり、接点がイマイチであれば興味がないで終わる。嫌いという感情が芽生える前にその人のことは深追いせず、嫌いだと思うに至らないようにする。
なので、結構わたしはニュートラルな人間だと自認もするようになり、これは勝間和代さんに会う前と会った後の人間的変化だと思う。
あとは幸いなことに「猛烈に嫌い」と思うほどに劣悪な人間が周囲にいない。だからこそ、ニュートラルなんて悠長なことを言っていられるのかもしれない。
本気で劣悪な人間はこの世にはある一定数いるもので、そこは付き合わないほうがいい。
いずれにせよ、人は会ってみないとわからない。そして会う時は気持ちをニュートラルにしておくこと。一方的な先入観を抱えて人に会っては駄目だ。
自分に対して嘘まみれの先入観を持った人に会うと辛い。だからこそ、自分は先入観を持っていないほうがいい。