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バイアスを取り除いていくこと

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結月でございます。

昔に比べると随分とバイアスのかかった考え方が社会から少なくなってきた気がする。エビデンスなんてことが普通に言われたりするのもバイアスを取り除こうとするゆえだろう。

今から400年ほど昔、イギリス経験論という哲学を生み出したのはフランシス・ベーコンであるが、演繹法に対する帰納法を考え出したひとでもある。

実は400年も前からベーコンは今でいうバイアスを取り除こうとしていて、そうした偏見はバイアスではなく「イドラ」と呼ばれた。

イドラには4つあり、

・種族のイドラ

・洞窟のイドラ

・市場のイドラ

・劇場のイドラ

である。

そんなイドラは令和の日本でもまだまだ社会の中、つまり人間の中にあって、どうやらイドラを取り除いていくことはそう簡単でないらしい。

例えば洞窟のイドラは個人的な経験や習慣といったちっぽけな価値観から来る偏見。結婚しないと幸せになれないだとか、大企業に就職できれば安心だとか、そういうことも洞窟のイドラ。

あと劇場のイドラは学説や思想、伝統などから来る偏見で、今では西側陣営の日本ではテレビをつけてもウクライナに同情的でロシアにはなんでも批判というのも思想の偏りがあるからだと言える。

おそらくロシアでは真逆のことが言われていて、それも劇場のイドラに違いないとはいえ、どちらもバイアスがかかった意見になる。

とまあ、いろんなイドラがあるわけで、イドラがあると人間は過ちを犯しやすい。人種差別も洞窟のイドラであろうし、Twitterで無駄なやり合いがなされているのも互いがその短文の意味を理解していない市場のイドラであろう。

イドラが介入しにくいのは科学の世界で、科学は実験的に証明されなければならないからSTAP細胞はちゃんと葬り去られた。

では科学的な人間がイドラやバイアスがないかというとそうでもない。人間とは総合的なものであるから、その専門分野ではイドラがない判断ができても専門外となるとイドラ満載という例はたくさんある。

コロナ禍では感染症の専門家がたくさん出てきたが、コロナウイルスに関してはイドラのないコメントをしている専門家でも専門外の社会のことになるとイドラだらけで自分の専門にすべてを引き寄せて考えようとしたり、それはすなわち劇場のイドラである。

日銀の黒田総裁が「日本の家計の値上げ許容度が高まっている」と言うと、「買い物をしたことがないのか!」などの批判が出てくる。

日本銀行が話すことだから内容はマクロであるのに、それを個人レベルに矮小化して怒り出す。これは洞窟のイドラの典型。それによって発言の内容がねじ曲げられてしまう。

マクロとミクロの混同はセンチメンタルな文化人や左翼リベラルに起こりやすい。マクロな政策を動かしていく際にいきなり個人的なものに落とし込む。国全体の失業率はマクロの話だが、マクロ的に失業率が改善されたと言っただけなのにシングルマザーや生理ナプキンを買えない人もいるだぞと批判する。

政治は文学にならない。政治はマクロであるから個人ひとりを相手にできない。個人の生き様を描くのは小説であり、小説はマクロを描くことができない。

それは視点の違いであるからどちらも存在する。しかしステージが異なる。ステージが異なるものを混ぜ合わせるとおかしなことになる。

とはいえ、小説でも映画でも個人のミクロが大きなマクロを突き動かしたといったストーリーはドラマティックだから好まれる。ただ、そんなことは現実ではほぼない。だからこそ脚色される。

さて、どうしてそんなイドラやバイアスは人間からなくならないのか?

それはおそらくそういったものがあったほうが人間は楽しいからだろう。

アンチというのはバイアスの塊であって、だからこそ楽しい。誰かに対して、何かに対してアンチになることは快楽なのである。

熱烈なタイガースファンは巨人の悪口を言うのが気持ち良くてたまらない。野球のプレーを純粋に見ると戦力を冷静に分析して、チームに関係なく優れた選手、そうでない選手、まあまあの選手などが割り出せる。そうすると平等に見る目が出てきて、プレーを応援するようになりどちらのチームがいいといった偏りがなくなる。

すると野球はおもしろくない。自分が嫌いでたまらないものには敵対して、それがたとえいいプレーであってもムカつく対象になり、罵声を浴びせる。これは気持ちいいものなのである。

選挙だって自民党が好きか嫌いか、共産党が好きか嫌いか、そういう立ち位置はほとんどがバイアスであって、選挙はバイアスの取り合いと言っていい。だから各政党は互いに批判し合う。

是々非々でクールに観ていけば、その政党の中にいいものと悪いものがあってそれを分けて考えられる。ところが選挙は得てしてそうはならない。

そもそも是々非々で判断するにもイドラやバイアスを取り除く知性が必要で、その能力がないと本当のことは見えてこない。

ウクライナ侵攻についてテレビに出てくる専門家と称する大学教授がその胸にウクライナの国旗をデザインしたバッジをつけている。それはすでにバイアスがかかったことを示しているのであり、その話はちょっと信憑性に関して眉唾になってくる。

であるから、ウクライナを扱うテレビを見ると、それはアンチ巨人の阪神ファンの話と本質的には変わりがないように見える。あまりにも一方的なのである。

世界と捉えるというのは永遠の哲学的テーマであろうが、そこに到達できないことは薄々わかりつつ、できるだけ正確に捉えようと哲学は進化してきた。それは偏見の除去であり、まずはバイアスを取り除かないとほんの少しですら世界と正確には捉えられない。

しかしながら、やはり社会はバイアスのかかった楽しさに流れていく。マスコミはその最たるものでバイアスを生み出しながらそれを巨大化し、あらぬ事実を作り出すものだろう。

出版物もそうで自己啓発本やビジネス本はバイアスがなければ売れるものにはならない。中国が憎くてたまらない嫌中本もわかりやすい例である。

テレビ通販の怪しげな健康食品もバイアスだらけで煽りに煽る。だからこそ買う人が続出する。

バイアスこそが魅力になり得る。

でもそれは嘘ばかりである。楽しいかもしれないが、悪質な嘘であり美しくはない。

人間は「思い込む」ことが幸せであり快感なのだろう。宗教は思い込む典型だが、ヘイトだって思い込みである。しかしヘイトは当事者になると快感であり、快感であるからこそ恥じらいもなくデモ行進ができる。原発反対だって思い込みであろうし、自分の好きな事実、自分に都合のいい事実だけを愛する思い込み。そんなものがいくらでもある。

おそらくは思い込み抜きだとアイデンティティを得られないのだろう。フェアな視点でニュートラルであれば快感がないから透明な自分になってしまう。本当はニュートラルであることは上質な快感があるのだけれど、なかなかそうはいかない。

バイアスやヘイトは最も得られやすいアイデンティティ。

だから、そう簡単にはこの世からイデアはなくならない。

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