結月でございます。
太宰治は『人間失格』で「恥の多い人生を送って来ました。」と書きつけたけれど、ひとりでは死にきれないから女を誘って心中、しかも人の飲み水である玉川上水に飛び込む迷惑行為をして大恥の集大成。
今の価値観だととてもじゃないが同情してもらえるわけはなく、炎上ネタであるし、
「バカじゃね?」
という扱い。
そう考えると今はしっかりとした時代で、そんな生き様は評価されないいい時代になった。
しかしながら、人間は恥が多いもので、恥のない人間はいやしない。恥を恥と感じない鈍感な人間はいれども。
さて、わたしも恥の多い人生で、昔にやらかした恥を思い出すことが多くなった。
それは特に愛娘が物心つき始め、立場的にいろんなことを教えてやらぬ立場になってから、自分の過去がしきりに思い出されるようになった。
おそらくは4歳児に向かってかく言う自分は、自分が駄目だったから過去の自分を反面教師にして愛娘にはそうならぬようにしているからだろう。
あとは歳を重ねると当然、恥の数は相応に増えるからで、あまり長生きしないほうがいいのではないかと思ったりもする。
しかし、恥を恥だと認識できるということは、それだけ自分がまともになっている証拠でもある。
今から思えば恥だと思うことも、その当時は恥と思ってないから平気でやらかしているわけで、それだけ自分が進化したのだろう。
おかげで二度と同じ恥はしないようにはなったが、あのときこうやっていればという後悔じみた気持ちになることはあり、しかし、時間は逆戻りしないから仕方がないと諦める。
今になってからわかること。あのときもっと勉強していればよかったとか、あのときもっと真面目にやっておけばよかったとか、後の祭りが多々あるわけである。
若さゆえの愚かさはあれど、愚かな恥を恥だとわかり、それを検証できていて、こうやればいいとわかって行動できていることを考えればやはりこれは進化であり、それはロケットを宇宙に飛ばそうと何度も失敗しながらその失敗の原因をデータとして集め、改良を重ねて精度を向上させる試みに似ている。
それを進化と捉えれば年齢的な若さは減少しつつも、中身は最新形であり、愚かな若さよりは本質的に若くなっていると言える。
歳を重ねても何も変わらず、相変わらずのままだとそれは進化していないわけで、欠陥商品のまま改良もされずに長年売られている品物のようである。
相変わらずの人間だとたまに会ってもおもしろくない。昔のまんま。過去の記憶のまま変化がないと話すネタもない。
でも、脱皮を繰り返す人間なら会うたびに変化があって、会うたびに新鮮でおもしろい。
ところで恥は嫌なものだが、人間は恥をかかないと進化できない。ロケットと同じくいきなり成功し、失敗なしに成功し続けることはできない。
検証するネタがあるからこそ向上できる。
ここが分かれ目で、検証するかしかいか、しないで恥の上塗りを重ねながら自分の愚かさを直視する苦悩から目を背けるかどうか。
自分の恥を見るのは嫌なもので、それは太り出したひとが体重計に乗ることを避けるのと同じである。
しかし、デブからの脱却は体重計に乗ることからしか始まらない。
だが、最も鬱陶しいのは、自分の恥を眺め、いつも自分はこうなんだと自虐しかしない人間で、変わるための行動を怠ったままだと救いようがない。
とまあ、こんなことを考えながら、思い起こされる過去の恥をうっちゃっている。そして進化を試みる。
4歳児を眺めていると、成長過程は失敗の連続、過ちの繰り返し、量産される恥であることがよくわかる。
本質的には4歳児もわたしも同じなのだ。人間とはそういうもので、恥を検証する能力が経験上ちょっとわたしのほうが優れているくらいの差しかない。
でも、「恥の多い人生を送って来ました」とつぶやいておきながら、自分の恥を認識していることを告白しているくせに女と心中するような生き方は最低最悪でしかない。
恥は検証するもので、放置するするものではない。