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猫はどこから来たのか?

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結月でございます。

事務用にしているゲーミングチェアをリクライニングモードにして小休止。すると咄嗟に猫がお腹の上に飛び乗ってきて、こちらに顔を見合わせる。

そんな猫の顔を揉みながら思う。

「おまえはどこで生まれて、どこから来たんだろうね?」

うちには3匹の猫がいるけれど、どの猫も出生はわからない。

1匹目が来たときは子猫のときに回虫が寄生していて、動物病院で虫下しを処方してもらった。回虫は母子感染が多いらしく、ということは外で暮らす母猫から生まれたことがわかる。

2匹目は耳ダニが付いていて、それは1匹目にも感染して、2匹連れて動物病院へ行き、耳の塗り薬を処方してもらった。耳ダニがいたということはやはり野良だったのかと思うが、不思議なことに猫の種類はターキッシュバンという日本では数少ない猫で、どこぞの中国人の女が拾ったらしく、それが経由してうちに来た。そんな希少な猫が耳ダニがつく環境で、しかも生後1ヶ月ほどの小さな子猫であったのだから、どこで生まれたかはよくわからない。

3匹目は子猫よりちょっと大きいくらいのときに感染症に罹って目も膿で開くか開かないかというひどい状態で死にかけていたのを拾われた。抗生剤を打ってもらい命拾いした猫である。

とまあ、出生がわからない猫たちばかりで、間違いなく生みの親がいるはずだけれどもさっぱりわからない。

人間だとどんな親であるかはわかるし、自分の親がわからないというのは特殊な事情であって稀である。

しかし、ずっと長い間、共に暮らしている猫たちの生みの親は見てみたいものだ。こんなに可愛らしくて、こんなにもわたしとずっといてくれている猫たちを産んでくれた猫はどんな猫なのだろう?

猫と生活していると、その関係の深さ、その思い入れの深さを考えるが、それは人間の付き合い、例えば家族であったり、お客さんであったり、古い友達であったりするも、どの人間よりも猫のほうが関係も思い入れも深い。

あまりに溺愛しているものだから、メンタリストDaiGoになってしまいそうで、自分の猫を愛する気持ちは見ず知らずの人間よりは深いのは当然でもある。

どの猫もわたしの意思ではなく、急に持ち込まれた猫ばかりであるが、もし猫たちがいなかったら今のわたしはどんな人間になっていただろう?

きっと今以上にトゲトゲしていて、乱暴で、いつも苛立って不機嫌で、付き合いにくい人間まっしぐらで、要するに最低のクズであったと思う。

それが猫と暮らすようになって緩和されているのは確実で、猫たちのおかげでこれでもクズ度が低くなっていると自認する。

今は4歳の女の子を毎日一緒にいるけれど、実は子供嫌いなわたしは猫と過ごす時間がなかったなら、きっとまともに育児なんてしなかっただろう。

猫というのは無償の愛というか、無償の献身の生き物。猫に愛という概念はないだろうから、まあ献身が近いだろうか。

猫は献身しようと思って寝そべっているわけでなく、猫はただ猫であるから寝そべっているだけであるのに、その姿がたまらなく可愛らしく、癒され、生活になくてはならないものになる。

ちょっと休もうと畳の上に寝転がると、猫がスタスタとやってきて添い寝をしてくれる。ついでにペロペロと顔を舐めてくれる。

PCに向かって仕事していると、その膝の上に飛び乗ってゴロゴロと喉を鳴らす。

そんな猫の行為が自分の刺々しさをなくしてくれるし、その姿を見ることで笑顔になっている。

そういう意味でも猫のほうが4歳児よりは思い入れが深くなる。

4歳児も可愛いけれど、無理難題を言い出して泣き出したり、食べ物で服を汚したり、勉強は教えなければならないし、とにかく面倒で手間がかかる。

ところが猫は勝手にご飯は食べてくれるし、無理難題は主張しないし、何かを教える必要もなく、面倒なことはしない。まあせいぜい、毎日トイレの砂をきれいにするとかそんなもので、猫は勝手にしてくれるから、何かをお願いされることがない。

人間は「お願い」があるから面倒で、小さな子供はお願いばかりだし、大人だって依存性が強い人間はお願いばかりしてきて鬱陶しい。

でも、お願いをしないとすべてのことは自分でできないわけで、それゆえに人間社会にはお金なるものが重要になってきて、お金を払ってお願いをしてもらう。

しかし、家族や身内となるとお願いに金を取るわけにもいかず、大変面倒。だから下手に結婚などして余計な家族や身内を増やさないことが得策で、できることなら独り身でいることが自由で幸せで心地いい。

将来年をとって、いよいよ死期が近づいたときが問題で、近くに人がいないと野垂れ死する。だから身内がいたほうがいいという考え方もなくはないが、身内が親身になってくれるとも限らない。

身内であるほうが荒っぽく扱うことは多い。それは距離が近すぎるからで、最も対人的なマナーが悪くなるのは家族である。

そう考えると、必ずしも身内が頼りになるとも言えないわけで、ほどほどに面倒を見てくれる人がいるように死期を考えるべきだとも思う。

そんな死期が近づいたときにそばに猫がいてくれればと思いつつも、自分が死んだら猫が残されて孤児になったらかわいそうだから、猫好きは最期は一人で死ぬべきである。

とまあ、人間関係は多いほうがいいのか、少ないほうがいいのか、それはその人の性格によるもので、賑やかなのが好きであれば人間関係は多いほうがいいだろう。

わたしは人間嫌いであるから少ないほうがよく、最終的には結美堂山ガール部のメンバーだけあればいいなんて思っている。

山登りがあれば年に数回ほど一緒に山に登って、温泉入って、お酒飲んで宴会して、雑魚寝して楽しめる。それも年に数回程度だからいいのであって、いくら愛すべき山ガール部だとは言っても頻繁に山登りしていてはお互いが嫌になるに決まってる。人間関係は程々くらいがいい。

美輪明宏さんが「人間関係は腹六分」と言っているのはそういう意味で、その極意は非常によくわかる。

思えば今度公演をするマロオケも同じで、今度が3回目のプロデュースであるけど、数年間隔だからいい。いつやるかわからない間柄で、数年ぶりに演奏者たちと再会し、公演をド派手にバンとやったら解散して、今度はいつ会うかわからない。

常設オーケストラとなると団員が頻繁に顔を合わせるから、窮屈であろうし、面倒も多いだろう。マロオケはそれがないからとてもいい、と思う。

とまあ、人間関係は互いに深入りしないほうがよく、ドライであるのが心地いい。

しかし、猫はペッタリである。深入りしすぎてしまう。溺愛しすぎるから死んでしまうとペットロスになる。

でも、猫は献身なのだ。献身の生き物であるからいやらしさがない。猫には打算もないし、下心もない。猫は好き勝手に生きているだけなのに、それが人間にとって献身になっている。

だから人間なんかより猫がいい。ずっと猫とだけ暮らしていたい。

でも、人間は人間の社会で生きないと飯が食えないから仕方なしに人付き合いをする。

こんなにも愛している猫たちなのに一体どこで生まれて、どこから来たのだろう?

そんなことすら未知であるから猫は余計に愛おしい。

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