結月です。
うちの5歳児は自転車が乗れず、公園で練習するもうまく乗れない。クルマ生活のせいでもあって、週末はクルマで遠出して遊びに行くからチャリを乗るなんてことをしない。
しかし、保育園では4歳児が園庭でチャリを乗りまくっている。もちろん5歳児も乗れていて、乗れないのはうちの愛娘だけだ。
そもそも運動音痴のわたしはバイオリンは教えても、モーツァルトは聴かせても、運動は教えない。だって、わたしができないのだから。
と、チャリを乗れるようにすることには今まで真剣でなかったが、春になって練習させたが暑くなってきてすぐやめた。チャリを持ったり、支えたり、一緒に走らなければならない教える立場はチャリを教えられるよりも遥かな運動量で暑いとやってられない。
そんなわけでチャリは夏になって乗っていなかった。ところが先日、保育園の園庭で愛娘がチャリにチャレンジしていると乗れた。ちゃんと前に進めた。下手くそだけど乗れたと言える。
できなかったことができるようになると嬉しいもので、帰りのクルマの中でも、
「自転車、乗れた」
と、嬉しそうである。
バイオリンのように終わりがないものはできたという実感が得にくいものだが、チャリは乗れればいいだけだからわかりやすい。
この世には結果が単純なものと結果がない永遠がある。
音楽という到達点がないものはチャレンジしても総じて三日坊主になりやすく、楽器なんて始めたところで3ヶ月続けばいいほうである。それは器楽演奏に終わりがないからで、楽器を操る技術を身につけても今度は音楽的な世界に突入し、終わりがない。
であるからして、音楽、まあ総じて芸術というのは終わりがないからこそ、長く続けられる。死ぬまで続けられる。
科学は結果であり、解明するのにものすごく長いプロセスがいるもの、例えばヒッグス粒子とか、ビッグバン以前だとか、ブラックホールの内部であるとか、そういうのは実は結論がありつつ、解明に人ひとりの人生では足りないが故に死ぬまで続けている科学者がいる。しかし、それは根本的に終わりがあるという意味で芸術と異なる。
芸術は終わりがない、もっと言えば正解がない、だからこそ無意味にも見える。科学的、合理的な考え方だけに徹すると著しく未意味なものである。しかし、人間は科学的、合理的にだけでは生きられない不合理の塊である。肉体の機能は細胞レベルで合理的であっても、想念を持っているがために不合理である。
さて、チャリに乗れたことがしみじみと嬉しかった愛娘を見て、
「じゃあ、今日はお祝いにケーキでも買う?」
と、スペシャルな提案をした。
たかが自転車くらいとも思ったが、本人ができなかったことをできたときの喜びを感じていて、これは称賛しておくにいい機会だと思ったのである。できなかったことができるようになる喜びを忘れずにいれば、これから何事もすぐには諦めないだろうし、忍耐強くなれる。そして生きることに絶望しなくなる。
家の帰る途中にあるシャトレーゼに行き、ケーキを買う。すると、ステンレスの樽があり、「樽だし生ワイン」とある。
最近、ワインはご無沙汰していて、というか酒量自体少なくなっている。しかし、ちょっとした興味本位でそのカベルネ・ソーヴィニヨンを買ってみた。
瓶代が150円ほどで、その瓶はラベルなしの緑色のもので、キャップを太い針金で留める。これは本場フランスのシードルのボトルのようである。
日本の企業が出しているシードルは子供っぽいデザインで炭酸ジュースのようであるが、フランスの本物のものは露骨にリンゴの味がして大変に美味しい。
そんな緑色の瓶に入れてもらい、早速飲んでみた。
「ほほぉ。悪くない。C'est pas mal.」
お値段も700円ちょっとで720ml。これはなかなかいい。もちろん高級酒のような上質さはないけれど、普段飲みレベルでは、
「いいじゃん、なかなかいいじゃん!」
それにラベルのない緑の瓶がいい。まるでバルザック時代のパリのようである。無名感はラベルの押し付けがましさがないから心地いい。
と、予想以上によかった、700円ちょっとにしてみれば上出来であるから、その翌日も空になった瓶を持ってシャトレーゼに行き、今度はメルローを入れてもらった。すると、
「うん。メルローのほうが出来がいいかな」
と、今度からメルローにする。
白ワインもあって夏季限定なのか生ワインがある。ちょっと興味があるが、あまり白は飲むことがない。
しかし、調子に乗って二日連続でワインを飲んだら、くたびれてしまった。昔は毎日これくらいのワインを飲んでいたというのに今は二日連続でくたびれる。
「ああ、調子悪…」
と、翌日メルローに手を出したことを後悔する。もう少し日を空ければよかった。
愛娘を連れてドンキに遊びに行くもどうも怠くて、困ったときのヘパリーゼプラスのドリンクタイプを買って飲んだ。ヘパリーゼを欲するほど参っている。
普段の酒量が減ると情けないものであるが、お酒を飲まないときの快適さに目覚めてしまってちょっとお酒を毛嫌いし始めている。と同時にお酒がないのも些か寂しいというときもあってちびちびとは飲んだりするが、調子に乗ってグビグビ飲むとこれである。
しかし、どうして洋菓子屋のシャトレーゼにワインがあるのか不思議に思ったが、調べてみるとシャトレーゼは山梨の甲府が本社で、そこにワイナリーも持っているらしい。
全国展開もしているし、優良企業の雰囲気がある。
さて、ディオニソスにチャンピオンベルトをもらったほど飲んだくれていたわたしも酒量は栃木に来て3年で右肩下がり。
このまま右肩下がりで、あとどれくらいにゼロになるのだろう?
10年はかからない気がする。
病気をしてお酒をやめる話はよく聞くが、自然消滅で飲まなくなるのは健康的じゃないか、肉体的にも精神的にも。やめようと思ってやめるのは辛いけれど、じっくりとディミヌエンドして消えていく。
毎日、冷凍庫でキンキンに冷やしたウォッカをストレートで飲んでいたことが嘘のようである。
あれは幻想だったのだろうか。