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うん、お酒は飲まないほうがいい

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結月です。

こんなアタシでさえ、酒量が減り続けているのは、体力的にお酒を飲むのが結構キツくなってきたという情けない理由だけではなく、さすがに人の何倍も飲んでしまったから「飽きた」と感じてすでに10年近く。

しかし、やはり体がキツいというのが大きな理由で、それは軟弱になったからキツくなったのか、お酒を飲むと体がキツいことに気付いてしまったのかはわからない。考えてみれば、昔からキツかったに違いないが、それをキツいと意識していなかっただけのような気もする。

あとは昔は飲酒後はひとりでグデッとしているだけで済んだのが、今は小さな愛娘と過ごしているから、お酒の飲んだ後にグデッとできなくて、飲酒して5歳児の相手をするのがものすごくキツいというのがある。それによって飲酒後のキツさが可視化されたのかもしれない。

と、そんな風に感じて何年も経つのであるが、プレジデントに掲載されている鈴木貴博さんのコラムを読んで、

「そうだよね」

と、思ったのである。

president.jp

若者がお酒を飲まなくなった理由として考えられるのが、お酒を飲むと生産性が下がるという視点で、それは本当にそうだと思う。

わたしの場合は、お酒を飲むと小さな愛娘を相手にすることができないこと、それもつまり「生産性の低下」だと言える。

とにかく今は無駄がない生産性だとか、早く結果を求めるだとか、そういう傾向が強く、それはZ世代に近づけば近づくほど強くなる。

一昔前世代は「無駄を味わう」みたいなところがあって、お酒を飲んで酔っぱらう行為も無駄を味わう楽しみと言える。

しかし今は「そんなことやって意味あんの?」という問いかけが主流であって、お酒飲んで酔っぱらう意味あんの?と問いかけてしまうのであり、昔にはまず発想としてなかった。ところがそれを問いかけることを発見してしまい、無駄であることを知ってしまった。

あとはSNSの流通で、仕事が終わっても、学校が終わってもその付き合いから深夜でもメッセージが飛んできて、付き合いが途切れなくなった。これは感覚的に「ずっと忙しい」わけで、酔っ払って返信不能な時間はあまり持ちたくない。

SNSの交流を蔑ろにしてまで飲む「意味」はあまりない。

というわけで、20年、30年前の若者が街で泥酔していたような光景は今ではあまり見られることはなく、居酒屋に行っても昔は会話が聞き取れないほどみんなんがお騒ぎしていたのに今はそんなにうるさくない。というか、居酒屋そのものに客があまり入っておらず、それはコロナだけの理由でもなさそうである。

さて、わたしも生産性を意識し出したのはいつからか明確でないけれど、お酒飲んで体がキツくなって動けない時間が無駄、というか「嫌だな」と思い始めた。

要するに育児もできないし、仕事に費やす時間も減る。また過去を振り返って酒なんか飲んでいた時間をもっと勉強に費やせばよかったという後悔もある。

そう思い始めると、酒量は減ってくる。

さらにお酒への無駄意識があると、飲んだとしてもいい酒なんかに金を使うのももったいなく、安いやつでいいよと思う。

今は缶チューハイにしても安くても正直うまい。スーパーで500ml缶で150円ほどで「氷結」が買えてしまい、喉が渇いたところにゴクゴクと飲むと、

「ああ、氷結はうまい」

と思ってしまう。

となると、オーセンティックなバーで一杯3000円くらいのシングルモルトウイスキーなんて、

「いやいやいや。そんなのいらないッス。それ一杯飲むなら、スーパーで氷結をケースで買えるんで」

なんて思う。

この感覚はつまり、豪華さやハイクオリティやそのウイスキーにまつわる歴史的なストーリーなんてものはどうでもよく、そこに金かける気にはならないよ、というものなのである。

これは昭和から平成ではなかったものであり、当時はそういうゴージャスさこそ価値があったのである。

ところが今は氷結で十分うまいし、わざわざ働いた金を一杯3000円のウイスキーをオーセンティックなバーで飲むために使うのはアホくさいとクールに考える。

そのような傾向も日本がじっくりと時間をかけて着実に貧乏になっている証拠でもある。

さて、そうやって時代は進んでいるわけであるが、じゃあ、お酒はまったく飲まなくていいかというとわたしの場合、そこまでは行っていない。というのは、ちょっとはお酒を飲んで頭を強制終了させないと、ずっと仕事モードでキツいからである。

お酒を飲めば、頭のモードは切り替わる。そして飲んだあとはグデッと横になれる。それがないと覚醒状態が続いてしまって、頭が痛くなってくる。それにそんな状態で仕事のことを考えてもそんなにいいアイデアは出てきやしない。

というわけで、ちょろっとお酒を飲んでしまうわけであるが、飲むとやっぱりあとがキツい。

そのキツさの中にいると、飲まなきゃよかったと後悔する。

最近は特にその後悔が飲む前からはっきりと見えてしまって、お酒を飲まなかったり、飲んだとしてもアルコール度数が低い氷結程度に済ませる。ちなみにストロングゼロになるとアルコール度数が9%で、近頃は9%でもあとがキツいのである。

とはいえ、飲まないと体は楽であるが、頭が休まってはいないからそれはそれでキツい。

そんな矛盾の中で生きていて、きっとお酒を飲まない人はそれに代わるものが必ずあってスイーツかもしれないし、スマホで動画を見まくるなどかもしれない。

しかしながら、お酒がよろしくないのは、飲んでいる最中は頭は休まっても、飲んだあとは気分がネガティヴになること。

言ってみれば、飲酒後の気分はまるで純文学。純文学的暗さに覆われてしまって、これはよくない。

また人と一緒に飲むとそれはそれで楽しいものであるが、飲んで家に帰って一緒に飲んだ人がいない状態というのが寂しい。しかし、いてくれればいいかと言えばそうではなく、きっといたら鬱陶しい。

要するに飲んでいる最中は楽しくても飲んだ後が楽しいお酒というのはないのである。

一番いいのは、セフレとお酒を飲んでそのあとも楽しみ、そのまま一緒に寝てしまって朝起きてまた楽しむ。そして「じゃあね!」と言って気持ちよく別れる。これがベストである。

ここで重要な点は恋愛関係でないところで、恋愛関係だとベタベタしてよくない。これまた純文学になってしまう。

とまあ、総括するとお酒は飲まないほうがメリットが多い、と言えるわけで、そもそも飲酒をメリットかデメリットで考えているところが今風なのである。昭和時代はそんな天秤にかけるような思考はなく、ヘベレケ一直線であった。

ただ、人と会って飲む約束をして、当日を迎えるのが楽しみなのである。旅行が旅行本体よりも旅行に行く前が一番楽しいのと同じ。そして、

「ういーッス!」

と、乾杯して最初の一杯を飲むところまでが楽しい。そしてその後からは実は楽しくない時間を養成しているのである。

であるからして、生産性を下げる飲酒はほどほどがよろしい。でも、飲酒を避けて生産性を上げたとして、じゃあその時間で何をやるか?それが重要になってくる。

酒を飲まない代わりがスマホでSNSというのも価値もなさそうだし、ネットフリックスやYouTubeを倍速で見るというのも「意味あんの?」と思う。

死ぬ直前に後悔しないようなことをやる。やりたいことをやれるための勉強に費やす。そういうことがいいのだろう。

それがわかっていてもそれができないのが人間でもあり、結局は無駄が生じる。

そもそも無駄は減らすことはできても完全になくすことはできやしない。なぜなら、それが人間であるから。

無駄が一点もない人間がいたとしたら、それはきっと話してもおもしろくはないだろう。

でも、無駄ばかりの人間も話したっておもしろくはない。

と、こうした考察も最終的には「曖昧」に行き着くのである。

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