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もはや何を食べても感動しない。

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結月です。

極上の料理なんかの写真を見ると「こんなの、いらない」と思うし、夕方のテレビで激安なのに大盛りみたいな番組を見ると「うえっ…」と思う。例えば、刺身のネタがてんこ盛りのどんぶりとか。

高級食材にも興味が持てないし、スーパーで霜降りの牛肉を見てもやっぱり「うえっ…」というか「気持ち悪…」なんて思う。

かなり前から食べるものに上質なものを求めなくなって、かつては銀座にあったマキシム・ド・パリや有楽町のアピシウスに行ってオードブルと魚料理までにシャンパンを一本空けて、肉料理とチーズで赤ワインを一本空けて、お会計は15万とかそういったことをやっていたのが嘘のようである。

食に関しては興味が右肩下がりであって、結局マクドナルドがうまいとか、ピザーラがいいとか、ケンタッキーはパリのトゥール・ダルジャンよりもうまいとか、そんなところまで堕ちてきて、でも最近はそれらも鬱陶しくなってきた。

昨日はコンビニのカップヌードルのカレーを食べて、

「こりゃ、うまい!」

なんて言っていて、しかもカップヌードルはお湯を沸かすだけですぐに食べられるから「いらち」であるわたしにはいい。

ちなみに「いらち」とは関西地方の言葉で、何かと忙しなくて気が短い、そして待ちきれずにイライラして落ち着きがない人という意味で、実は上方のわたしは典型的な「いらち」なのである。

いらちであるから料理ができるのが遅いとイライラする。定食のようにご飯とおかずが別々というのもまどろっこしくてイラつく。であるからして「いらち」な人にとってはピザのようにいきなり食べられて、具もそこに一切合切まとめられているのがよく、定食なんかでなくカツ丼とか一品でまとめられるものを好むのである。

ちなみに先の述べた極上のフレンチレストランは料理が見事であるのは当たり前として、何よりもサービスが素晴らしい。こちらが給仕を呼ばなくとも、こちらがしてほしいことを思った瞬間にそれを察してテーブルにやってきてくれる。

居酒屋のようにでかい声で、

「すみませ〜ん!!」

なんて言わなくてもよろしい。念じるだけで来てくれるのが高級店であり、いらちには有難いのである。

とまあ、「いらち」なわたしは、しかも重度のいらちなのであるが、コンビニなどで丁寧すぎる説明過多な対応をされると、

「どーでもええから、はよ釣り銭渡せ」

となる。

ところで「いらち」は「短気」とは異なる。短気はいわば木刀のような硬さがあって融通が利かない単純な気の短さであるが、「いらち」とは木刀でなく鞭である。しなやかさがあるのである。

言ってみれば「短気」にはない色気というか上方特有のユーモアがあるというか、気は短いが直線的ではない。

さらに「せっかち」とも違っていて、せっかちはただドジで奥行きがなく底が浅い感じがする。

話が逸れたが、とにかく「いらち」であるから面倒な料理は嫌であって、その典型は海老や蟹料理である。

殻を剥くのが面倒で、サッと食べられない。おまけに手は汚れるし、痒くなるし、食べにくさのイライラが増幅されていけない。

それでいて矛盾するようだが、わたしが焼き魚を食べるのがうまく、骨をサッと処理できる。ここにはイライラしない。

それはなぜかと考えると、海老や蟹は両手をベトベトにしなくてはならないが、魚は箸だけのテクニック、そこにちょっと左手だけを加えればいいので手が汚れない。それに海老や蟹は食べている姿も美しくなく、かぶりついているのは見せたくない姿だ。しかし、魚をきれいに捌けるとちょっとエレガントであり、技術であり、頭と骨だけがきれいに残されると見ていて気持ちがいい。

ということはやはりコンビニでの丁寧すぎる対応にイラつくのは、余計なことをするからであり、海老や蟹を食べるには余計な殻が外側にあるからという余計さに共通するのではないか。

魚の骨は身の中にあるからいい。もし焼き魚に鱗があって、その鱗を剥がさないと食べられないとなると魚だって嫌になる。

と、「いらち」は余計なことに敏感に反応し、やらんでええようなしょーもないことをやるな!という時間短縮を求めている。

と、また話が逸れたが、最近はカップヌードルのカレー味がお気に入りなのである。

お酒も以前はたくさん飲んでいたが、これまた酒量は右肩下がりであって、そんなに飲まなくなった。とはいえ、以前が人の何十倍も飲んでいたから比較すると今でも常人よりは飲んでいるほうかもしれないが、参考までに昨日も今日も飲んじゃいない。

小さな愛娘と過ごすようになって、お酒を飲むと幼児の戯れに付き合うのがものすごくキツいという事情もある。

お酒を飲むとすぐ寝たくなるわたしであるから、一人でゆっくりと寝るのであればいい。しかしながら、飲んでから3時間ほどでほぼ回復するとはいえども飲まないときの「楽さ」が魅力になってきて、飲んでいる最中の楽しみよりも飲まない「楽さ」のほうが勝ってきた。

と、そんな具合で食べるものも飲むことも興味が右肩下がりのままであるが、今日は道の駅でブロッコリーの芽を買って湯がいたのであるが、うちの猫たちが大のブロッコリー好きであるからたちまち皿に群がってバクバクと食べられてしまい、わたしの分はあまり残されてしなかった。

しかし猫の嗅覚はものすごくて、ブロッコリーの袋を開けるだけでソワソワとし出す。生の状態でもよくわかるようである。

とはいえ、すべての猫がブロッコリーが好きなわけでなく、うちの猫はブロッコリーはまたたび以上のものである。

さて、食べるものに興味がなくなってくると、自分が食べた豪華な料理の写真をSNSにアップしていたりする人を見ると、涙ぐましい思いになる。

まだそんなものに興味があって、自慢したいのか… 可哀想に、よほどいいものを食べたことがなかったんだね… と同情的上から目線である。

ちょっとした機会にご馳走を食べて、そこに喜んで写真を撮っちまうなんて貧乏人がすることで、惨めに見える。

とはいえ、わたしはとりわけリッチな人間でないが、精神は貧乏でないと言っておこう。であるからして、ご馳走を人に見せびらかせるということはしない。猫に食われたブロッコリーは掲載する。

かつては食べるものに興味があって美食路線で生きていたのに今は右肩下がりで、やはりApple Watchに興味がある。

先日も宇都宮のMacに行って現物を見たが、ほしいと言えばほしい。しかし、あっても使う当てがない。

血中酸素濃度が測れたり、心拍数が知れるにはいいが、でもそれを知ったところでどうする?というのがある。

そんなものを四六時中注意しているわけにもいかないし、引きこもりであるからそもそも腕時計をずっと身につけちゃいない。

LINEでのやり取りも知り合いが少ないからそれほどでもなく、iPhoneで事足りる。また、栃木で車生活だから電車に乗らないから定期券も使わない。

と、はっきり言って「要らない」のがわかっていて、でも新しいものがほしいと思ったりする。

まあ買わないだろうな、とわかっちゃいても興味だけがある。

しかし、Apple Watchをしている人はそれほどたくさんは見かけないから、きっと要らないんだろう。

とはいえ、飯のことよりも新しい技術に興味があるほうが「ために」なるとは思う。

さて、土日以外は毎日しているエアロバイクであるが、脚力もついてきて今は一番重いモードで30分漕ぎ続けている。

1月に買ったときは一番重い設定するとあまりに重くて、

「無理、こんなの」

と思ったが、今はそんなに重く感じない。

人間は真面目にやればちゃんと結果が出てくるものである。

と言っても、栃木のクルマ生活で極度の運動不足であることは変わらず、エアロバイクのエクササイズをしてもまだまだ不足している。

酒なんか飲んでいる場合でないのである。

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