結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

モーツァルトが美しすぎて死にたくなる。

【スポンサーリンク】

結月でございます。

もうこのところずっとEテレの「おかあさんといっしょ」など子供向け番組をつけることがなくなって、朝はテレビでなくモーツァルトの音楽を流している。

愛娘も年長組になっているから内容が合わなくなったことに加え、テレビがあるとダラダラするのがよくない。と言っても自然的にいつの間にかモーツァルトになったわけで、朝のモーツァルトは清々しくて気持ちがいい。

ディヴェルティメントをかけることが多いが、聞き飽きるほど聞いているはずなのに聞き飽きることがなく、毎度のことながらその美しさに恍惚となるというより「やられちまった感」が大きくて、宝石の中には入ることができない絶望を感じるのである。

そんなモーツァルトの美しさを感じることができない人とは口は利きたくいないと思う美の差別主義者なのであるが、そうするとモーツァルトを聞いてくれる人がいて、

「すごくよかったです!」

なんて言われると、

「こいつ、口先だけだな…」

と、やっぱり口を利きたくなくなる。

美しすぎて死にたくなるくらいじゃないとその美には近づいちゃいない。宝石の中には入ることができず、ただひたすらに眺めるしかない絶望に本当に死んでしまってもいいくらいの気持ち、それがモーツァルトであって、しかしその美には手が届かず、触れることも掴むこともできない実体なしの、それなのに存在していることにやはり絶望する。

だから毎朝絶望していて、その美しさに悩殺されて、人知を超えたものを少しだけ感じることができたつもりで保育園に出かける。

そして5歳児はクルマの中でアイネクやディヴェルティメントの旋律をおもしろおかしく口ずさんでいる。

これからわたしは公演をいくつプロデュースできるかわからない。10年は頑張ってみようと思うけれど、もしかしたらもっと早い段階で自分の中にある音楽はすべて昇華されて公演を終わりにするかもしれないし、10年以上やるかもしれない。

それは時代の変化とともに歩むものだから、そのときになってみないとわからない。いずれにせよ、自分の中で「音楽はもういい」と思うほど胸の中にある音楽がすっかりなくなってしまったとき音楽の仕事は本当にやめてしまうつもりでいる。

続けることを目的としなくないからで、続けることが目的になり出したら自分が腐っていくだけだから終わりだと思ったらやめる。

そして、そんなラストの公演はモーツァルトを選ぼう。ジュピターを最後にやって終わりにしよう。アンコールはなし。

さて、毎朝わたしと一緒にモーツァルトを聞いている5歳の愛娘を迎えに保育園へ行く。帰りのクルマの中で晩ご飯は何がいいかという話をする。お互い食べたいものはない。だからメニューが決まらないまま、

「ねえ、ちょっと考えてる?」

という問答をしている。

スーパーに行ってもそこに何が売られているかは熟知しているから行ったところでメニューは決まらない。外食といっても決まったものしかない。

するとどういうわけか、わたしはフランス料理が食べたくなった。美味しいフランス料理。まともなフランス料理。

しかし、栃木の田舎にいるからフランス料理店なんてないに違いない。少なくとも見たことがない。宇都宮まで行けばあるだろうが、そうするとクルマの運転があるからワインが飲めない。

19世紀の美食家ブリア・サヴァランは「チーズのない食事は片目のない美女」と『美味礼讃』に書いたが、わたしにとってワインのないフランス料理は「マスク姿の美女」である。

ともかくフランス料理が食べたいわたしはiPhoneで検索してみた。この田舎にフランス料理店はあるのだろうか? もしかしたらわたしが知らないだけかもしれない。

「真岡 フレンチレストラン」で検索してみるとウンザリした。なぜなら、フレンチと入力しているのにランキングで出てきたのはハンバーグチェーンの「ビッグボーイ」、あとはサイゼリア、さらにはドミノピザだった。

もうイヤ。勘弁してくれ。だから田舎は嫌なんだ。

「だめだ、やっぱり。フランス料理店はないよ」

と5歳に言うと、

「じゃあ、今からフランスに行けばいいんじゃない?」

と5歳児。

「まあ、それができるならわたしだって今すぐそうしたいけどね…」

とわたし。

スーパーに行って食材を買い、自力で作ることもちょっとは考えたが面倒。というか自分で作ったものでなく、しっかりとしてフランス料理を今日は食べたいの。

と、結局スーパーに行っても食べたいものは決まらず、鶏肉と猫の砂だけ買って帰った。そして、冷蔵庫に人参やジャガイモがあったからハウスのシチューを作っておしまい。なんとも理想とはほど遠い。

大して食べたくもないものを無理して作ると、ハウスのシチューでさえも出来栄えが悪い。わたしはバターソースがたっぷりとかかったスズキのポワレが食べたかったんだ。ワインはシャブリかヴーヴ・クリコ、もしくはランソン。

しかし、シャンパンは数あるけれど、ヴーヴ・クリコがうまい。オレンジのラベルの普通のやつ。極上を見ればキリがないけれど、ヴーヴ・クリコが普通にうまくていい。とはいえ、ワインが年々高くなっているし、円安だから今はいくらするのだろう? わたしがよく飲んでいた頃はボトルで3500円くらいだった。

とまあ、フランス料理が食べたかった希望は叶わなかったが、そういえば思うことがある。

それは先日、結美堂山ガール部で那須の茶臼岳に登ったが、そこのホテルのディナーはビュッフェ形式だった。各々が好きなものを取りに行けるのだけれど、山ガール部としては初めてのこの形式、わたしはちょっと寂しくなったのである。

いつもは奥日光のホテルでみんなで同じ懐石が出されるのであるが、ビュッフェだとみんながバラバラに違うものを食べるから食卓に統一感がなく、なんというか好き勝手になってしまって寂しく感じたのである。

せっかくみんなで山に登ったというのに食べるものがバラバラ。そして不意にテーブルを立ち、料理を取りに行く。みんな同じの懐石ならずっと座りっぱなしなのにテーブルが歯抜け状態になる。落ち着きがない。料理としては好きなものを好きなだけ食べられる気楽さはあれど、

「なんだかね」

と思ったのである。

それにビュッフェは貧乏性が出ていけない。そこに群がる宿泊者たちは目が貪欲になっているし、周囲を見ていないからぶつかりそうになる。またいくらでも取っていいから欲張って美しくない。貧乏臭くてたまらない。

やはりわたしはホテルでは決められたものを食べるほうが好きだ。ホテル側が客のために考えてくれたメニューをいただく。すると自分が知らない料理の発見がある。ところがビュッフェだと自分が好きなものしか取らないから新たな発見がない。

ビュッフェはビュッフェでいいところもあったが、みんなで同じものを食べる連帯感の良さみたいなものを逆に認識させた。ついでに言うと、ビュッフェは客任せになるから、サービスが悪くなる。そこには客を気遣ってくれるウェイターやウェイトレスはいない。

さて、日々大したものを食べていないせいか、プロが作るフランス料理が食べたくなった今日。たまにはしっかりとして美味しいものも食べたくなる。それは一度食べれば満足して半年はもう食べなくてもいい。

GoToが再開されたら、愛娘を連れて東京に宿泊していいフレンチを食べてもいいかもしれない。大きくなって貧乏性にならないよう小さな頃からいい料理を体験させておく。そうすれば大人になってご馳走を目の前にしてもガツガツしやしない。

【スポンサーリンク】