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ドケチではたくさんの金は得られない。

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結月でございます。

夕方、5歳の愛娘を保育園にお迎えに行き、そのままかかりつけの病院にお薬をもらいに5歳児に付き合ってもらう。

待合室にテレビがあって、そこには夕方の主婦向けの情報番組がやっていて、ドケチ生活の特集をしていた。

とにかく生活費をケチりまくってお金を貯めるというものである。

わたしはああいうドケチがすごく苦手で、ドケチ生活をする女とはちょっと関わりたくないというか関わることはないが、万一にでも知り合いになりたくない。

亭主と自分の給料をケチりまくって、スーパーの特売を日々チェックし、1週間分の食費を透明のビニールパックに入れて徹底的に金を管理する。

テレビに出ていたドケチ主婦は結果、念願のマイホームを買うところまできたという。

しかし、家を買うと言ってもほとんどの人がローンであり、払い終わるのに数十年かかる。それは一体「買う」と表現していいものだろうか?とわたしはいつも違和感を覚えていて、「買う」というのは一括で払うものではないか。

月々のローンであれば実質家賃と変わらないし、日本では不動産価値が高まる土地はものすごく限られていて、大半は買ったその日から家の資産価値は喪失していく。

ローンを払い終えたときはもちろん家には価値がないし、場所が良ければ土地代は価値があるかもしれないが、それも限られていて地方であれば払った分の価値もなかったりする。

そんな家をケチって金を貯めて買うと言っても、それは頭金を貯められたというのが正確な表現であり、ローンが終わるまでドケチ生活を続けなければならない。

結局、ドケチは限られた固定収入しかないから引き算の発想になる。入る分に変化がないからいかに削るかが目的になる。

しかし、必要最低限の出費はあるわけで、いくらケチっても総収入の3割を貯蓄に回せれば御の字といったところだろう。

3割を残せたとしてもドケチ生活はストレスというか、鬱憤が溜まるものに違いなく、人間は鬱憤が溜まると盛大にやりたくなる欲望がある。月に一度のご褒美だとか、そんな理由で焼肉を食べに行ったり、旅行に出かけたりして、ケチるがために出費が多くなる。

当然のことながら、たくさんのお金を得ようとするならば、入る分を増やすしかない。ところが勤め人だと昇給は会社の判断に委ねられているし、思い通りにならない。

すると起業するしかないのであるが、起業は才能というかセンス、向き不向きがあるから誰しもというわけにいかない。それができないから固定給の中でいかに削減するかとドケチ路線に走るのだろう。

日本も終身雇用が昔話になり、転職が普通になってきた。であれば、より給料が高い会社に転職してステップアップしていくのがサラリーマンとしての収入アップで、しかしそれも実力がないと叶わない。

起業するセンスもなく、転職で収入アップができる実力もないとなると、やっぱりドケチしかない。

ドケチで暮らすと、日々の価値基準が金になる。そうすると幸福度は下がる。

価値基準が金である故に金持ちである人はいるけれど、幸せそうには見えない。金とはそういうものである。

価値基準が楽しさであり、楽しさを追求して仕事をしていたら結果金持ちになっている人は楽しそうだし、幸せそうである。

1ヶ月3万円ケチるよりも3万円稼ぐほうが早い。そんな足し算思考のほうがいいような気がする。

またお金の不思議で、金を使う人のほうに金が集まってくる。金は天下の回り物とは本当のことでどうやらお金は使って循環させたほうが入ってくるようなのである。

だから、ドケチ生活は循環せず淀んでしまうから、ケチで削減できたとしても大きな額にはならない。

そしてお金そのものには善悪がない。そんなお金はこれまた不思議なことに明るいのが好きなのである。お金は明るいところに集まってくる。

お金はド派手なものが好きで、ラスベガスのカジノみたいにネオンがギラギラな明るさに金は集まる。

カジノは極端だとしてもイベントだって地味でダサいものよりも明るくて元気なほうがお金が集まる。

政治的には右翼に金が集まり、左翼は貧乏である。左翼は弱者のための云々だとか、ボランティアがどうだとか、話題が貧乏で暗すぎるからドケチ生活と同様に大きな金が動かない。またお金へのコンプレックスが強く、経営者からの搾取など何かと金を持つことに嫉妬深いというか攻撃的であるから当然のことながらお金は逃げていく。

しかしながら、金がたくさんあれば幸せかというとどうやらそうでもない。金持ちなのにトラブルばかり、家には病人がいて、家庭内不和が激しく、側から見て不幸せそうなのもいる。

そういうのはおそらく金を目的にして生きた結果の金持ちなのだろう。と同時に左翼リベラル的な貧乏さも結局のところ金のことばかり考えなければならないから不幸せに見える。

お金は物質社会で生きていくにはとても大事なものであるから、しっかりと考えなければならない。とはいえ、それを目的にすると不幸になる。最悪、殺されたりもする。

何がしたいか、どういう生き方をしたいかがまず先にあって、それに見合う金、それを実行するための金を考えるのが良さそうだ。

つまりヴィジョンが必要で、それがないとただ金を浮かすことだけ考えて生きるドケチ生活になる。金の数値を増やすことだけに専念する生き方になる。

どういう生き方をするかによって必要なコストは大きく異なる。

それを東京でするのか、北海道の僻地でやるのかでコストは異なる。得られるものが同じであれば、コストは安いに越したことはない。

自分がどんな仕事を、どのようにしたいか、それがはっきりしていないと転職にも失敗する。なぜならヴィジョンがないから職場の選び方が給料という金だけが基準になるから。さらに金を基準にしているくせにできれば楽なほうがいいとか都合のいいことも言い出す。

きっと幸せとはヴィジョンがあって、そこに向かえている実感がもたらすものなのだろう。

だから、ヴィジョンがあっても自分がそこから離れていってしまうと絶望的な気持ちになる。

でも、ヴィジョンを持てる人間は割合的には少ない。そういうものなのである。ないものはない。持てないものは持てない。

そうであるからいくら自己啓発本やビジネス本が頑張っても無駄なのである。ないものはないんだから、そこに説教しても何も生まれやしない。

さて、不必要なものにはビタ一文払わないというのと、生活を切り詰めるドケチとは別物である。

不必要だとジャッジできること。これも意外とできる人は少ない。要らないものばかりを思いつきで買ってしまったりする。100均なんて不必要なものばかりの場で、そこで大量に買うのは愚かなものなのだ。

本当に必要で、それがあれば何かを向上させることができる。であれば出し惜しみはしない。しかし、別になくていいものなら100円だって使わない。

つまり、経営者的ケチ。自分の出費も経費として考える。

固定給を切り詰めるドケチ出なく、身につけるべきは経営者的ケチであろう。

そういえば、日本というのは子供にドケチである。日本政府だって子供にはケチで、教育を軽んじていてそこに大きな金を投資しない。だから人材が育たない。

ドケチ生活や貧乏で育った子供は学力が低い。統計的にそうなのである。

不思議と学力アップには自由が必要で、自由な環境、制限がない場のほうが子供は伸びる。そしてそこに必要なものだけを投資する。

そうして育った子供は高い学歴を得て、結果高収入の働きをする。そうなる確率が高い。

ドケチや貧乏だとお金を扱う金額のスケールが小さすぎて、大きなお金を扱えない。だから低収入の仕事におさまる。またドケチと貧乏環境は金を自由に使えないから閉塞感が出てしまい、自由がない。抑制が強すぎるのである。

国民の貧困化が進むとさらに経済が上向かないという悪循環になっていく。それが今の日本であって、格差は諸外国ほどでないけれど、総体的に貧乏になっている。学力低下が叫ばれるのもそこに一因がある。

貧乏でもせめて楽しさを追求できる躍動があればいいが、日本は同調圧力が強く、他人目線で生きる傾向が強いから世相が貧乏になると楽しさをオープンにしにくい。

とまあ、そんなことを考えてみた。

削減するより稼ぐほうを考える。

生き方の違いであれど、自由を制限されるドケチ生活はわたしは勘弁である。

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