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猫幸福論

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結月でございます。

開高健の『オーパ!』に、

一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。

三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。

八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。

永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。

 とあって、中国の古い諺らしい。

概ね「男にとって」という限定的なもので、まあわからなくはない幸せで、さらに言えばちょっと無頼な男にとっての幸せ基準みたいなものだろうか。

そもそもお酒なんか体質的に飲めない人もいるし、結婚してずっとオシドリ夫婦もいれば、豚肉なんて別に食べたくない人もいるし、釣りなんて退屈と思う人もいる。

ともかく、幸せとは人それぞれであって、これと決まったものはなく、昭和の男なら、

「俺はお前を一生幸せにする」

なんて台詞もあろうも、何が幸せかも説明しちゃいない。

物質的に恵まれない貧乏な時代だと、幸せとはそのまま物質であり、ほしいモノがいつでも買えて、モノに溢れた生活がリッチであり幸せということになる。

貧乏で食えなければ、何よりも食べることが幸せであり、これまたわかりやすい。

しかし、今は飽食であり、物質に恵まれ、そこそこ使えるものでも100円ショップで手に入る。

そうなると、むしろ「捨てる」ことが課題になっている。

うちの愛娘の保育園も3歳児から聞くところによると、食べきれなかった給食は各自がバケツに捨てるそうである。

昭和生まれのわたしはちょっと驚いたのだけれど、まあ、そういう時代でもあるし、お腹いっぱいで食べきれないものを無理に食べさせられるのも困る。

とはいえ、バケツに捨てずに調理場に返して、給食担当者が裏で捨てるとか、そういう配慮もないものかと思ったけれど、飽食の時代だから小さな子供が残した少量のものなどバケツに捨ててくれるほうが作業は楽だし、それでいいじゃんということだろうか。

わたしが保育園のときの嫌な思い出として今も覚えているのは、カットされたリンゴを食べきれずに廊下で正座させられて食べさせられたことである。

わたしは顎が弱く、噛む力が乏しかったのでリンゴが食べられなかった。しかし、そういう医学的情報は当時の保育園ではなかったし、わたし自身、食べるのに苦労するというだけで顎がそうだとは親も知らなかった。

だから、リンゴを時間内に食べられないのは駄目な子供扱いで廊下で正座なのである。

そんなことがあったから、わたしは今でもリンゴはそれほど好きではない。食べられるし、出されれば食べるとはいえ、好き好んで自分では買わない。

それを思うと、今のように食べきれないものはバケツに捨てさせてもらうほうが辛くなくていい。 要らないものは要らない。だって食べきれないのだから。

なので、うちの愛娘は大きくなっても食べ物にガツガツすることはないだろう。捨てるくらい食べ物はあるし、空腹に悩む経験もないのだから。

草食系という言葉が昔流行ったけれど、それも飽食でガツガツしない環境で育っているからに他ならず、それを揶揄するのは貧乏時代を過ごした昭和世代ということだったのだろう。

とはいえ、料理を作った人への愛情は感じてほしい。そこは保育園は養えていない。

とまあ、そんな具合で、飽食時代だと食べ物に幸せを感じるなんてことは珍しくなるだろう。

ガツガツをしなくていいというのはいい時代であり、人間としても穏やかになろうし、自然にそれが礼節にもなる。

貧乏育ちだとどうしてもガツガツして、自己中心になりがちだし、人のことは信用しないし、金と食べ物に卑しくなる。

そんな卑しさをどう克服するかが礼節であるけれど、恵まれた環境で育てばそのあたりはさほど心配することがない。

というわけで、恵まれた時代のわたしたちは物質や食べ物には幸せを求めない傾向が強くなっている。

ブランドもののバッグを持ち歩く人も見かけなくなった。それは安くともいい品物が出てきたせいもあるし、ブランドという虚飾でマウントすることの愚かさと儚さを日本人は知るようになった。

さて、そんな中、幸せは物質でなく、気分であると本来の意味に立ち返っている。

そもそも幸せとは刹那的な気分であって持続性がない。だから、なくなってしまえば、次が欲しくなるもので、かつそれがなければ自分が不幸だと思い、心が病んだりする。

幸せを求めること自体がくだらなくて、古い価値観だとは思う。そんなことを考えている時点でもう駄目であって。

それはメーテルリンクが『青い鳥』で書いたことである。これを読めば幸せとはどういうものかがわかる。

わたしには猫がいる。3匹いる。わたしは猫が胸の上で寝ていたり、猫がぴったりと体を寄せてモミモミしたり、とにかく猫と一緒にいるだけでそれはもう極上の幸せなのである。

青い鳥が家にいたのと同様に、猫がいることが幸せ。

しかし、冒頭に書いた諺のように猫に興味がなかったり、猫が好きでない人にとってはこの幸せはわからないものだし、関心も持たれない。

だから幸せは人それぞれで得るしかないのだけれど、猫という生き物の特性を考えると、猫好きであることは幸せを得られやすい。

わたしは猫を飼っている人で自分が不幸だ、不幸だと病んでいる人を見たことがない。

辛いのは愛猫が病気になったり、死んでしまったりすることで、その別れに猛烈な悲しさを感じるとはいえ、それが不幸とは言えない。

ともかく、猫が生きている間は幸せでいられるのが猫好きであり、猫を飼っていれば飼い主が健康であり、寿命も長いという統計も出ている。

しかし、不幸そうにしている人に猫を勧めても駄目なのである。猫が好きな、反射的なハートがない人に猫を飼わせても、それはストレスになるだけで飼いきれない。

やはり、不幸そうな人はそれがすでに体質なのかもしれない。猫を可愛いと思える心がないから不幸ばかり感じるのだろう。

不幸そうな人には近づかぬに限る。そんな人と一緒にいても不幸がうつるだけで、何もいいことはないから。

猫がいれば他には特に何も要らない。そう思えると、幸せを理解できたということ。

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