結月でございます。
今朝、愛娘を保育園に送り届け、その帰り道でミライースを運転中、現在準備中のビッグなプロジェクトその2の最高のキャッチコピーが突然閃きエキサイト。
「うわ… このキャッチコピー最高だわ… 時代も捉えてる… アタシってマジで天才…」
と、自分のキャッチコピーセンスを自画自賛。忘れないようにスマホにメモる。
コピーって大事で、それはすなわちコンセプトになるから。
逆に言えば、いいキャッチコピーが閃かない企画ってつまらないっていう証拠だと自分の中で認識している。
ところでビッグなプロジェクトその2ってことはその1っていうのもある。今日思い浮かんだ天才的キャッチコピーはその2。その1のほうはすでに考案済み。
そして、今日はさらにいい知らせをもらって、プロジェクトその2の最大の案件にOKが確定し、大はしゃぎというより力強くホッとした。
プロジェクトその1のほうも先週、最大の案件をクリアし、そのときは嬉しくて居ても立っても居られなくなって猫を抱きながら部屋の中を旋回するように歩き続けた。じっとしていられなかったのである。
まだ解決しなければならない案件はいくつかあるが、一番のネックのものがOKを得たのでなんとかなるだろう。
このビッグなプロジェクト2本、
「王様の耳はロバの耳〜!!」
と、その内容を絶叫して発表したいが、まだ未確定事項がいくつかあるので、そこは焦らず公開できるときになったらここで絶叫しようと思う。
さて、話は変わって、今の若年層の考え方についてある社会学的な見解がネットの記事に書かれていて、なるほどなと思った。
大雑把に言えば、今は褒めることが大事にされていて、若年層のメンタルが弱いというお話。
おもしろかったのは、欧米の「褒める」と日本の「褒める」の違いで、欧米は元来、父性の厳しさがあってその中で母性的な「褒める」がある。ところが日本は母性的甘さの中で母性的「褒める」があるという話。
これにはなるほどと思った。記事によれば、日本の学校は勉強ができなくとも「かわいそう」という理由で落第がない。そんな母性的甘さがある。確かに欧米だと単位が取れなかったら容赦なく落第。
「褒める」行為は父性的厳しさの中で発揮するのであり、最初から甘い環境で褒めるとヤワな人間しか生まれないという指摘。
確かにそれはそうだ。今の日本はやたらと褒めすぎるし、それは間違いを正すのではなく、相手が悲しんだり傷ついたりしないという配慮というか、自分が悪い人になりたくないという心理でなされている。
きっとそれは今までの日本が褒めなさすぎていて、貶しすぎてきたからだろう。それを見直す動きとして「褒める」が流行中。
しかしながら、何かに才能がないといくら頑張ってもできやしない。わたしを例にとると、わたしみたいな人間に水泳やバスケットボールを「褒め」て教えてもうまくなることは絶対にない。水泳やバスケに関してわたしの能力値はマイナス1000くらいであって、最初からやりたくないし、クロールで1回くらい息継ぎができて褒められても嬉しくもない。
それだったら泳ごうとして沈む姿、バスケでたちまち突き指している姿を見て、
「能力ないクズ」
と言われたほうがスッキリするわけで、そう言われたら無駄な頑張りをすることなく気持ちよく辞められる。
かといって、何をやっても「クズ」呼ばわりされる社会も嫌なもので、かつてに日本がそんな風な抑圧的であったから、今の過剰に褒める文化がトレンドになる。
根拠もないのに頭ごなしに否定されるのが困るわけで、根拠があって「能力ない」と言われるのはそんなに悪いことではない。
褒められることばかりで否定される経験がないと、人間はメンタルがいつしか弱くなり、ちょっとしたことですぐにメンタルが病んでしまう。つまり、褒めるだけでは反骨精神が育たないのである。
失敗であるのに失敗と言われず、とりあえずいいところを無理やり見出されてそこを褒められる。よくあるのは受験に失敗して、
「あなたなりによく勉強したんだから、そこは自分でも認めよう。ね」
みたいな嫌らしい言い方。
自分として勉強をしたって落ちたものは落ちたわけでその事実は変えられず、学校には入れないまま。それだったら、
「落ちたもんは実力不足じゃねーか。落ちたんだからそれ以上もそれ以下もなし」
と言われたほうが次につながりそう。
本当にできないところは厳しく言われて、それをもとに克服していって、やっと実力で達成した時にちゃんと褒められると嬉しい。要するに今の「褒め」る文化はオベンチャラ文化なのである。
そのくせ事実をビシッとハッキリ言ったら相手が傷ついたとか、大変に面倒であるから、それだったら保身のためにもとりあえず褒めとけとなる。
とは言え、一昔みたいにシゴキ的なものがなくなってきて、能力もないのに縦社会構造で上の立場にいるだけで威張っていたようなものも減少傾向にあるのはいいことだと思う。
と同時に、能力がない人はいくら褒めてもそれで能力が飛躍するなんてことはない。逆にシゴキによってあった才能が潰された事例は多々あれど。
ともかく褒めることが主流になって社会は穏やかになったけれど、ヤワにもなった。それは昔より利口にはなった反面、根気という名のトルクが弱いとも言える。
メンタルのトルクが弱いと大きな取り組みができないし、バイアスを破壊するパンチ力もないから従順な人柄になりやすい。
さて、自分が褒められると嬉しいものかと考えてみる。それくらいわたしは褒められた経験が少ないのだが、今のオベンチャラ的な褒め方だとそれがすぐにわかるから嬉しくない。おべんちゃらなんて聞く時間が無駄に思える。
しかし、自分が憧れていた業界の第一人者とか、そういう人に自分の成果を褒められるとちょっとは嬉しい。それはおべんっちゃらではないから。
そんな実績あるひとから褒められると客観的な自信になり、これからも頑張り続けようと思える。
とは言え、わたしもいつしか褒められるような年頃でもなくなってきて、他人の評価を気にしないようになった。やはり褒められるという他者評価を気にするのはまだ若いということなのだろう。
そして同時に、わたしはほとんど人を褒めない。うちの5歳児には褒めることは多々あれど、大人に対して褒めることなんてない。
思えば褒めるって嫌らしいもので、いわゆる上から目線で褒めた瞬間に相手を蔑んでいる。だから褒めるのは5歳児が上手にひらがなを書けたとか、足し算引き算が全問正解だったとか、圧倒的にその内容が自分より下だとわかっていて、かつ相手がそれをできるのに相当の頑張りをしている距離感があってのこと。
だから、大人同士で褒め合うのはどうもおかしな気がして、やはりそういうのがおべんちゃらなのだろう。
「すっごい、その服、似合ってる〜」
みたいな女同士のおべんちゃらの応酬が今の日本の褒め文化の発祥なのかもしれない。だから母性的甘さであって、日本にはまともな父性文化がない気がする。
日本の父性は単に厳しいだけで、嫌がらせに近い。
実意のない女的おべんちゃらと嫌がらせ的な男の父性。
ところでアメリカのアカデミー賞で妻を馬鹿にされた俳優が舞台上でビンタしたが、あれは男としての父性を露骨に発揮した行為。
それに対して「どんな理由でも暴力はいけない」というのは女的おべんちゃらだろう。
どんな理由でも暴力はいけないという発想は物事を単純化しすぎていて大変危険な考え方ではないか。
人間はそんな単純な枠組みに収まらないほど多面的なものであり、さらに非理性的な生き物であるから。
人によって、それをやられたら何がなんでも許さないというポイントがある。逆鱗というもので、それは龍の顎の下に逆さに生えた鱗を触ると龍は激情するというものである。
そこには触れてはいけないのに触れてしまった。しかも悪ふざけで触れた。なのにどんな理由でも暴力はいけないとするのは人間の多面性を否定する見解なのである。
しかし、それよりもアカデミー賞という会場で、あのジョークに受けた笑い声がたくさんであったことのほうが驚いた。日本はさすがにそこまでひどくはない。
わたしはアメリカのことはあまり知らないが、あの内容で笑えて、ブチ切れた男に向かって「どんな理由でも暴力はいけない」と制裁する国なのだろうか?