結月でございます。
自分が馬鹿だと思ったほうがいい場合もあれば、自分は頭がいいと思ったほうがいい場合もある。
昨今、「褒めて育てる」なんてことが言われるけれど、貶されてばかりいては人間は自己肯定できなくなってしまい、自分は駄目な人間だと信じ、何もチャレンジしないし、何も勉強しようとしなくなってしまうから。
そう考えると、子供には褒めてやるほうがよろしく、子供相手に貶すというのはよろしくない。
当然、貶すと叱るは違うものである。
とはいえ、褒めることもそんなに簡単なものでない。誰しもがそれを的確にできるわけではない。
褒めるには相手のいいところを見出す才能が必要であり、いわばプロデューサーでなければならない。
確実にいいところ、それを狙わないとただ闇雲に褒めていてはほめ殺しになってしまい、たちまち嘘臭くなる。
相手が自信を持つような褒め方とはほめ殺しとは異なる。
さて、自分が頭がいいと思ったほうがよろしいというのは、それくらい過信している人間は多少の難題にぶつかっても、
「自分は頭がいいからできるはず」
と、容易には諦めず、その解決のために努力をするから。
これが自分が馬鹿だと思っていると、
「アタシ、頭悪いし、わかんない」
となって、何もしない。
自分が頭がいいと思っているとこれはプライドにもなり、そのプライドを守るためにもなお一層勉強する。
とまあ、そんな理由から自分が馬鹿だと思うより、頭がいいと思っているほうがいい。
とはいえ、まるでできないのに自分が頭がいいと思うのは、つまり「勘違い」という。
この狭間はなかなか際どく、思いのほか勘違いしちゃってる人もいたりして、そういうのは人間関係においてちょっと困る。
本当の頭の良さは、自分の実力が及ぶか及ばないかの判断ができることでもある。
思えば、自分はモテると錯覚している人も勘違いの部類かもしれない。
ところで今は褒めるブームである。褒める時代である。
しかし、それは純粋に褒めるのではなく、相手が傷つかないように言葉かける偽善に近い。
「ホントにそうか〜?」
と思ってしまうような褒め内容。そいつにはそんな力はないよな、と誰が見てもわかるのに褒める。これはあまりよろしくないように思う。
その偽善は保身であり、褒めておけば自分が悪く言われることはないし、褒めた相手から憎まれることもない。しかしながら、そんな保身の褒めが人にとってプラスになるとは思えない。
そう言えば、昭和時代は褒めることなく貶す時代だったように思う。家庭内育児も学校も親も教師もどちらかというと子供を貶してばかりいた。
その反動のせいか、今は褒める時代なのである。
さて、自分が頭がいいと思ったほうがお得なわけで、それは自分自身に追い討ちをかけられるからで、そのほうが伸びるから。
と同時に、挫折もしばしば必要で、自分は思っていたほど頭は良くなかったという冷酷さもあったほうがいい。
引越しをして磁場を変えるように、挫折によって今までの自分を自己否定し、一度更地にしてまた作り上げる。
作り上げるにはやはり自分はできる人間だと思うエネルギーが必要であるから、自分を卑下ばかりするのはよくない。
だから、自分のことを馬鹿だとは思い込まないほうがいい。
「自分はどうせできないし」
という素直さは、とどのつまり怠慢であって、最初からチャレンジする気がない。
だから、子供のうちから貶されてばかりいて、自己肯定できない人は気の毒だと思う。大人になってから一新できるようなものでないから。
とまあ、自分は頭がいいと思ったほうがいいわけだが、そこを学歴や学校名でアピールするのは愚かというもので、それは転じてアホという。
さらにストレスに関して言えば、自分が馬鹿だと思うのではなく、自分は大したことないと思うといい。
ストレスはちょっと的外れなプライドがあるから生まれるもので、それを除去するには「自分はそこまで大したことない」と思うことが大事。
要するに他者からの評価で生きるなというわけで、自分が大したことないと思っていれば他人の目は気のならない。そこに自惚れがあったりすると他人目線の生き方になって辛くなる。
自己評価と他者評価。この違いをわきまえる。
すなわち、自分が頭がいいと思いつつ、自分は大したことないとも思っとく。そのアンビバレントなバランスが秘訣。