結月でございます。
バイアスっていうのは、思い込みとか、信じ込んじゃってることとか、偏見とか、まあそんな意味。そして、人間というのは必ずといっていいほど、何かしらのバイアスを持っている。
あとは歴史が長くなって伝統化すると、それは極端にバイアス化する。伝統的に許されないことが形成され、逆に言えばやるべきことが定まってそれを徹するべきとなる。
古い企業になると、その企業の中のルールが徹底され、
「当社としては、それはできない」
ということが増える。
自動車であれば、自動車とはエンジンで走るものだと考えるのもバイアスだろう。素直に考えれば、自動車は電気モーターでもいいし、その他の動力でもよく、とにかく走って曲がって止まればいい。
ともかく古い業界ほどバイアスが濃厚になって新しい試みをしなくなり、そのバイアスを「維持」しようという方向になる。
しかし、いくら「維持」しようとしても世の中が変化しているのだから、適応できなくなってしまい、その結果、「維持」できなくなる。
明治の文豪のゆかりのなんとかとか、そういう建造物が維持できなくなって取り壊しになると、それをなんとか保存しようという動きがその時だけ湧いて出てくるが、例えば募金なんかでとりあえず取り壊しを免れたとしても、根本的に時代にそぐわない建造物だからやっぱりコストに見合う収益が出ないから維持できない。
その手の建造物は歴史であるから変えることができず、いわばバイアスの塊だと言っていい。
さらに個人にもバイアスはたくさんあって、味噌汁の濃さがその家庭で決まりがあったり、恋愛は異性間が普通と考えるのもひとつのバイアスだし、金がすべてというのもバイアス、逆に金より大事なものがあると考えるのもバイアス。
まあともかく、いろんなところにバイアスがあって、きっと人間というのはそんな思い込みがあったほうが楽に生きられるのだろう。
炎上というのは、世間的なバイアスに反したことをやると起きることが多く、炎上を見ると社会がどういう思い込みをしているのかがよくわかる。
しかし、バイアスから抜け出さないと当然ながら新しいことはできない。いわゆるイノベーションは起こらない。
新しい試みは古い体質とは異なる発想でできるもので、自分の中にあるバイアスを見つけ出し、それを破壊しなければならない。
ところが自分のバイアスは意外と自分では気づかないもので、とりあえずは過ごせているときは尚更気づかない。気づくのはうまくいかないときだったり、現状に無性に腹が立ったりするときで、あとは取り組んではいるがどうもおもしろくないと不満を感じるときであろうか。
そんなネガティヴのとき、自分のバイアスを発見し、その思い込みがあるから新しい試みやおもしろいと思えることができないのだと気づく。
すると社会のバイアスも見えてきて、社会が停滞したりしているとその原因が少しずつ見えてくる。
バイアスという思い込みにどっぷりでいることは、まるで薄っすらと洗脳される宗教に酔いしれる居心地なのかもしれない。
バイアスの中にいると考察しなくなり、なんとなくな風習みたいなものに流されて生きる。
バイアスに気づくということは、
「あれ?もしかして騙されてね?」
と、ハッとすることなのである。
しかし、それだけだとつまらない。気づいたバイアスを破壊しないと新しい試みはできない。
どんなことでもいいが、何かを試みようとするとものすごく批判されることがある。それはなぜかというと、新しい試みは他者のバイアスに喧嘩を売るからだ。既存の考え方を否定されるので、そこに対応できないと拒絶反応が出る。
その批判は古い体質の考え方を元にしているもので、そこを原点にすると新しい試みは「間違い」に見えてしまう。だから、かつて堀江貴文さんがネットとテレビを融合させようとすると古い体質側は、
「そんなものはテレビじゃねえ!」
と怒った。
BIGBOSS新庄の野球に対して、古い野球人は、
「そのやり方では勝てない」
と、始まる前から難癖をつける。
しかしまあ、バイアスを壊されると人は怒るものだ。きっとそれは自分が長年大事にして、信じてきたものだから、それを否定されるとアレルギーを起こす。
だから人間には2種類いて、バイアスを壊されることに怒る人間と壊されることを歓迎する人間。そして、その数は前者のほうが圧倒的に多い。さらに前者は抵抗しようと結束する。
カルロス・ゴーンが日産から追い出されたのはその結束だっただろうが、政治の世界にも抵抗勢力はあるし、至るところにそうした結束はある。
日本は変化を嫌う体質なので、バイアスを壊されると怒る傾向が強い。きっとそういう会社も多いだろう。
しかし、バイアスを壊して新しいものを創造することこそが時代を前に進める。古い考え方や思い込みに麻痺した状態では「維持」することすらできないのだ。
現状維持しようとするなら、2割増しで何か新しいことをやっておかないと釣り合わない。だから何もしないままだと維持すらできない。
自分の中のバイアスをいち早く見つけ、それを破壊すること。そして破壊するだけならただの更地にするに過ぎないから、そこに新しい価値を作り出すこと。
その新しい価値も時間が経てばバイアスになる。そしたらまたそれを破壊する。
そんな新陳代謝を行なっていると決して自分は古くならない。
デタラメではなく、根拠がある新しい試みでバイアスを破壊しよう。
「ちょっと、ちょっと待ってね…」
と、相手が躊躇うアイデアは新しい価値を生み出す可能性がある。
人間は過去の取扱説明書にないものを見せられるとうろたえるものなのだ。
そして、それを理解し、
「それ、やろう!」
と、共感してくれる人と一緒にいるべきなのである。
間違っても古臭い価値観からアイデアを否定してくる人とは一緒にいるべきでない。
そして、否定する、批判する人が多い、もしくは怒っているならば、それはチャンスである。自分がバイアスを破壊し、新たな価値を見出す試みをしている証拠であるから。
古臭い価値観からの批判は聞く耳は持たなくていい。なぜなら、それは「維持」すらできない思い込みにすぎず、なんら試みを後押ししてくれるものでないのだから。
他人の意見なんて得てしてバイアスに塗れた思い込みによるものが多い。
そんなことを真に受けて凹むことなんて馬鹿らしい。
新しいことは理解されないからこそ価値がある。そしていずれそれがスタンダードになって世の中を席巻する。
そしてそれがまた古くなってくれば、破壊して新しくすればいいだけなのだ。